コメットさん☆は、しぼんだ粘土怪獣→粘土細工から、水の中に落ちてしまいます。場所はこの位置です。作品では右上のところにもう少し草が生えているように描写されますが、実際はこの通りです。しかし驚くべき忠実度ですね。コメットさん☆はお尻と手先を濡らしてしまったように描かれますが、ここはやや水深がありますので、本当はもっといろいろなところが濡れてしまうと思われます。ちなみに泳いでいる魚は鯉です。
カメラは右から左に少しパンしながら、うなだれた粘土細工の背中を映します。なんともしょんぼりした背中ですが…。実際の場所は、この画像のところになります。ここは水深が一定しているのか、河床にあまりでこぼこは見られません。コメットさん☆がしりもちをついたところの真ん前です。
コメットさん☆は、かわいらしい顔で、少し下向きの視線を、粘土細工に向けますが、その位置はここになります。撮影可能な位置との関係で、わずかに石積みの角度が異なるようにも見えますが、位置としてはここで間違いありません。コメットさん☆がしりもちをついたところの真後ろということです。それにしてもコメットさん☆、しりもちをついて、お尻が冷たいはずなので、とりあえず立ち上がれば?(苦笑)。
コメットさん☆は、やっと立ち上がり、「大丈夫だよ」と答えます。撮影条件があらゆる面でよくないのですが、位置としてはこの位置になります。本来もう少し前に出て撮影したいところなのですが、角度、地面(水がない+普通に歩ける必要)、障害物、強烈な逆光、そもそもコメットさん☆と粘土細工の位置などを考えますと、このようにならざるを得ませんでした。上に見える橋が大御堂橋。下の水面の左手前より(葦のような植物で隠れ気味のところ)にコメットさん☆、その1.5メートル位先に粘土細工という配置です。
コメットさん☆は、いろいろな点で奥手な少女です。これはその実年齢を考えると、意外な印象ですが、冒頭のシーンを見る限り、まだまだコメットさん☆の、人の誕生に関する知識は、ラバボー以上、普通の同世代の子ども以下と言えるようですね。
さて、上の引用部分で、赤い字にした部分、これらは、冒頭の「命は勝手に生まれてはこない」というテーマを、受ける形になっていると思われますが、途中星の子の話をはさむことで、やや緩衝した形になっているとは言え、コメットさん☆に対して、スピカさんが、「命をつくる営みを、守れる立場と責任なしにしてはいけないよ。それはこうして赤ちゃんという形で、命になるもとなんだよ」という、当たり前ですが、今時の世の中で、ともすれば忘れられがちなことを、説いているように思えます。直接的な表現は、ほとんどない中で…、です。このことは、コメットさん☆という、やや奥手な女の子に説くことで、コメットさん☆の後にいるあまたの視聴者たちに、間接的に訴えかけているのではないか?…。そのようにも思えます。
意外と教条的なことを、さらりと言ってのけるこの作品「コメットさん☆」の、作品全体に流れる特徴が、ここにもまた現れていると感じます。
性を考えることは、生=命を考えること。そんなテーマが、この回には隠されていると考えられます。それは、粘土細工に命を安易に吹き込んだコメットさん☆が、スピカさんに諭されることで、小学校低学年以下の子どもたちには、普通に命の大切さを、またそれ以上の子どもに対しては、赤ちゃんという実際的な命を、「つくり出す」ことに、実は大変な責任が伴う。…さらにだからこそ、命をつくり出すことにつながる行為は、安易な興味本位でしてはいけないよと、考えさせられるようになっているからです。
実は一番、コメットさん☆という人物の体に迫った回と言いますか、コメットさん☆の体温とか、血液の循環とか、息づかいのようなものが、間近に感じられたストーリーではなかったか…。そのようにも思えます。それは、冒頭の王妃さまのコメントにあるように、「生きているものには、全てにかがやきが宿る」から…。「生きている」コメットさん☆の、未来への希望のかがやきが、その生命によって維持されていることを、強く感じさせるからではないでしょうか。
コメットさん☆という女の子が、叔母さんの妊娠を知り、自分が女の子であることの意味や、命を授かるということの意味、それがどんな感情に基づいて、どうやったら起こるのかということを、きっと、そっと、じっと考え、そして理解したのではないか…。そう思わせる、しっとりとした良質なストーリーであったと思えます。