私と「コメットさん☆」

 私は、400字詰め原稿用紙55枚にわたるエッセイ「コメットさん☆に捧ぐ」(リンク内にあり)を書き終え、アニメ館内のHPを充実させようと思ったとき、なぜ、この「コメットさん☆」という作品と、コメットさん☆という「人」に、これほどまでに突き動かされるのだろうか、と思った。

 でも、その答えを見い出すのに、時間はかからなかった。

 この「コメットさん☆」という作品に織り込まれている、様々な甘酸っぱいような、ほろ苦いような感情。それは主にコメットさん☆と、ケースケくんを軸に展開されるのだが、このことは、かつて私たち大人が、遠い昔に体験してきたこと、感じた想い、もどかしい感覚…、それらをそのまま、コメットさん☆とケースケくんの前、あるいはその他の登場人物の前にあるのを、「見てしまう」ということなのだ。そしてそこに自らを投影してしまう。

 自分の気持ちを素直に言い表せないケースケくんの姿は、どこかでかつての自分にオーバーラップするということだ。またコメットさん☆の、特に後半「届かな過ぎる想い」は切ないが、それすらも、かつての私たちの中に、きっとあった感情だと思える。

 そういうことが、私たち大人の心の中で、もう封印されたと思っていた「思い出」を、呼び起こすのだ。それは切ない想いのような気もするが、なつかしき「もう一人の自分」を、見ているようでもあり、心は千々に乱れる。

 しかし、「物書き」(あるいは創作する人全て)は、自分の心の中の想いを、吐き出し、さらけ出さなければ、人になにか訴えかけることはもちろん、自らの切ない気持ちを癒すことだって、出来はしないのだ。

 最終回(第43話)で、コメットさん☆は自らのふるさとである「星国」に帰ってしまう。それがとてもさびしい気持ちになるのはどうしてなのか?。かつてあまたのアニメ・ドラマの最終回で、同じような結末になっているものはあったはずだ。

 それが、コメットさん☆に対する、「届くはずもない、愛する心からだ」と言う人もいるだろう。それはそれで否定しないし、出来ないような気もする。だが、おそらくコメットさん☆が地球からいなくなるという設定がもたらす、「尋常でないさびしさ」を感じた人は、私だけではないはずだ。

 とすれば、その原因はどこにあるのか。それは「自己投影しうる対象(としてのコメットさん☆)」が、「星国」という、いまひとつイメージしにくいところに行ってしまうという、一種の「喪失感」が原因であると思える。私たちがイメージしにくい世界とは…。簡単に言えば「死後の世界」などはその最たるものだ。もちろんコメットさん☆は、死後の世界に行ってしまうわけではない。作品中では、ちゃんと救いが用意されているし、そもそも「星国」は、死の世界ではない。

 だが、「星国」の体制、姿、生活、そうしたものは、ある程度、制作者によって呈示されたものしかイメージしにくいことは事実である。一方また、まだ少女の王女が「人妻」にいやおうなくされてしまう(かもしれない)ことの持つ、生理的嫌悪感は、イメージしにくいものではなく、リアルにイメージできることそのものである。

 それでも「星国」は、私たちが生きている世界との違いが、かなり大きそうなものの、はっきりしないで、ぼやけて見える。

 だから「星国」に帰ってしまったコメットさん☆は、もう「となり人(となりびと)」ではなくなってしまうように思えるのだ。おそらくこのことが、「尋常でないさびしさ」につながっていると確信する。

 だが、コメットさん☆が、地球上の鎌倉のどこかに、今も住み続けているという状態であれば、私たちは、その姿をいかようにも想像し、思考しうる。その絆が断たれることはない。だから、より大きな「王子探しではなくて、よりたくさんの人々の希望・良心・望み・夢」と出会うという目的を持って、地球に再来する彼女たちを、私たちは喜びを持って迎えられるのではないだろうか。

 私の作っている「コメットさん☆」にまつわるページは、上に書いたような作品世界と、コメットさん☆という「人」を軸に展開される、人と人のつながり・関係を大事に保とうという視点に立って、その制作を続けていきたいと考えている。


2004.7.13すぎたま記