まずは、言葉の意味から。
「天罰」=天のくだす罰。自然に来る悪事のむくい。−−(「広辞苑」第5版より引用)
石原の発言。2011年3月14日の昼間。
「我欲に縛られ政治もポピュリズムでやっている。それが一気に押し流されて、この津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う。被災者の方々、かわいそうですよ」
同じく、同日夕方の発言。
「日本に対する天罰ですよ。これをどう受け止めるかという受け止め方の問題なんですよ。大きな反省の一つのよすがになるんじゃないですか。それをしなかったら犠牲者たちは浮かばれないと思いますよ」
まあ、平たく取れば、今回の大震災は、「天のくだす罰」であり、「自然に来た悪事に対するむくい」だと、そう石原はいいたいのだということになるのでしょう。なるほど、大震災は、悪事に対する報いですか。
私はこの「国難」とすら言われるときに、こういう発言をする石原という人を、許すことは出来ません。こんな被災地の人々を愚弄した言葉は無い。石原は芥川賞を受賞した「作家」なのだそうですが、こういうことを、平然と言う人間が、どうして賞剥奪にならないのか不思議です。もっとも、芥川賞の選考委員にまでなっているのだそうで、まあ「芥川賞」なんて、その程度のものなんでしょう。
だいたい、「この津波をうまく利用してだね」というくだりもわからんです。津波で我欲を洗い流す?。比喩にもなっていない。それに、「天罰だと思う。被災者の方々、かわいそう…」と続けていますが、ここは意味的につながっていません。「我欲に縛られた日本人」なるものには、被災者も含まれることになってしまうのではないでしょうか。さらに、「大きな反省」をすると、「犠牲者は」浮かばれるんですか?。こんな言葉のダシに使われるとしたら、それこそ犠牲者は浮かばれない。
どうしてこういう人物が、都知事や「作家」をやっていられるのか、長年都民をやっていますが不明です。作家というのは、もっと言葉を大事に使うものではないかと思うのですが。
●予想を大幅に超える地震動と津波が、東北地方から関東までを襲った。
●通信・流通・救援が途絶する中、多数の犠牲者が出るに至った。
●その後の物流も混乱し、多数の避難者になかなか手が届かない未曾有の災害となった。
●原子力発電所が危険な状態になり、放射能が大気中に放出される異常事態となった。
●東北から関東の広い地域で、計画停電を実施せざるを得ないほど、電力不足に陥った。
…など、数え上げたら、このページの行数がいくらあっても足りないほどの災害に、多くの人々が見舞われているというのに、それらは全て「天罰」だと。ほう、そうですか石原さん。……。
東北の漁村で、日々魚を捕って暮らしていた市井の人々や、野菜を一生懸命作って、都内にも出荷していた茨城の人々が、受けなければならない「天罰」など、どこにあると言うのだ、石原!。
言葉というものは、撤回できる場合と、そうでない場合があるかと思います。記者会見で言った言葉を、撤回できるか。形の上では「撤回します。すみませんでした」と言えば、出来たことになるのかもしれません。しかし、上にも書きましたが、「人は思ったことを口にする」ものです。石原に限らず、みんなそうです。もちろん私も例外ではありません。だとすれば、石原の心根に、この「天罰」という思い方があるのであり、それそのものを取り消すことは出来ないと言うべきでしょう。そういう心根を持った人は、都知事であるかどうかという前に、「人間としてどうか」ということではないか。そう思うものであります。
しかし、4月10日投開票の都知事選挙で、石原は再選されてしまいました。残念。