都知事・石原の「天罰」発言について考える

 
 2011年3月現在の東京都知事は、石原慎太郎です。この人物に私は一度も都政を託した覚えはありませんが、なぜか都知事に居座っています。つまり選挙では勝ち続けている、ということです。
 先般発生しました、「東北関東大震災」では、多数の方々が亡くなり、原子力発電所が大被害を受け、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所に迫る規模の事故を引き起こしたりしました。東北・関東地方では、電力供給がままならなくなり、計画的に停電を行うという事態にも、立ち至っております。犠牲になられた方に、心から哀悼の意を表するとともに、被害に遭われた方々にはお見舞いを申し上げます。
 さて、そのような大災害であった「東北関東大震災」でありますが、都知事の石原に言わせると、それは「天罰」なのだそうです。猛抗議を受けて、後に撤回・謝罪しましたが、人は、「思ったことを口にする。ひとたび口にしたことを、簡単には取り消せない」のではないかと思い、この件について再考してみます。

 まずは、言葉の意味から。
「天罰」=天のくだす罰。自然に来る悪事のむくい。−−(「広辞苑」第5版より引用)

 石原の発言。2011年3月14日の昼間。
「我欲に縛られ政治もポピュリズムでやっている。それが一気に押し流されて、この津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う。被災者の方々、かわいそうですよ」
 同じく、同日夕方の発言。
「日本に対する天罰ですよ。これをどう受け止めるかという受け止め方の問題なんですよ。大きな反省の一つのよすがになるんじゃないですか。それをしなかったら犠牲者たちは浮かばれないと思いますよ」

 まあ、平たく取れば、今回の大震災は、「天のくだす罰」であり、「自然に来た悪事に対するむくい」だと、そう石原はいいたいのだということになるのでしょう。なるほど、大震災は、悪事に対する報いですか。
 私はこの「国難」とすら言われるときに、こういう発言をする石原という人を、許すことは出来ません。こんな被災地の人々を愚弄した言葉は無い。石原は芥川賞を受賞した「作家」なのだそうですが、こういうことを、平然と言う人間が、どうして賞剥奪にならないのか不思議です。もっとも、芥川賞の選考委員にまでなっているのだそうで、まあ「芥川賞」なんて、その程度のものなんでしょう。
 だいたい、「この津波をうまく利用してだね」というくだりもわからんです。津波で我欲を洗い流す?。比喩にもなっていない。それに、「天罰だと思う。被災者の方々、かわいそう…」と続けていますが、ここは意味的につながっていません。「我欲に縛られた日本人」なるものには、被災者も含まれることになってしまうのではないでしょうか。さらに、「大きな反省」をすると、「犠牲者は」浮かばれるんですか?。こんな言葉のダシに使われるとしたら、それこそ犠牲者は浮かばれない。

 どうしてこういう人物が、都知事や「作家」をやっていられるのか、長年都民をやっていますが不明です。作家というのは、もっと言葉を大事に使うものではないかと思うのですが。

●予想を大幅に超える地震動と津波が、東北地方から関東までを襲った。
●通信・流通・救援が途絶する中、多数の犠牲者が出るに至った。
●その後の物流も混乱し、多数の避難者になかなか手が届かない未曾有の災害となった。
●原子力発電所が危険な状態になり、放射能が大気中に放出される異常事態となった。
●東北から関東の広い地域で、計画停電を実施せざるを得ないほど、電力不足に陥った。
…など、数え上げたら、このページの行数がいくらあっても足りないほどの災害に、多くの人々が見舞われているというのに、それらは全て「天罰」だと。ほう、そうですか石原さん。……。

 東北の漁村で、日々魚を捕って暮らしていた市井の人々や、野菜を一生懸命作って、都内にも出荷していた茨城の人々が、受けなければならない「天罰」など、どこにあると言うのだ、石原!。
 

 言葉というものは、撤回できる場合と、そうでない場合があるかと思います。記者会見で言った言葉を、撤回できるか。形の上では「撤回します。すみませんでした」と言えば、出来たことになるのかもしれません。しかし、上にも書きましたが、「人は思ったことを口にする」ものです。石原に限らず、みんなそうです。もちろん私も例外ではありません。だとすれば、石原の心根に、この「天罰」という思い方があるのであり、それそのものを取り消すことは出来ないと言うべきでしょう。そういう心根を持った人は、都知事であるかどうかという前に、「人間としてどうか」ということではないか。そう思うものであります。
 
 しかし、4月10日投開票の都知事選挙で、石原は再選されてしまいました。残念。


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