国鉄・JR105系電車
国鉄の103系、201系などの通勤形電車は、当初大都市を中心とした地域に投入され、その通勤輸送を長くになってきました。しかし、大都市周辺であっても、ややローカル線の性質を帯びた線区などでは、近代化から取り残され、旧形電車が運行されている線区がありました。例えばそれは、仙石線、富山港線、可部線、鶴見線…というような線区です。
このような線区にも、当然近代化の必要はあるわけで、都市圏から転用された電車によって、少しずつは電車の置き換え(旧性能電車から新性能電車へ)や、設備の近代化(通票閉塞から自動信号化など)が行われてきました。上に挙げた仙石線は103系の投入や、タブレット(通票閉塞)の廃止が行われています。鶴見線も支線を除き、101系電車が投入されたりしています。
しかし、1980年代に至っても、電車の近代化が遅れていた線区は、まだ残っていました。これらは、地上設備の関係から、電車の更新が行いにくかったり、輸送量の関係から、長い編成の列車を運転できない線区であったりしたもので、例えば飯田線や宇部・小野田線、可部線、福塩線などがそれにあたます。
これらの線区には、長く旧形電車が使用されてきましたが、いずれも買収路線(元は私鉄だったものを、戦時買収などで国鉄に編入した線区)がほとんどで、もともと検修の考え方や設備が、長編成志向の「新性能電車」には合わず、近代化が遅れた状態になっていたのです。
電動車1輌で走行可能な旧形電車のシステムは、比較的小単位な車庫設備には合致しており、古いことを除けば使い勝手が悪くは無いとも言えたことから、それまでの電動車2輌ユニット方式の「国鉄新性能電車」を多数投入することが得策とは言えず、路線近代化の足かせになっていました。つまり、例えばクモハ41+クハ55の2輌編成を、101系のクモハ101+クモハ100に置き換えるとれば、電動車が2輌の編成となってしまい、保守費の高騰、検修設備を改造する必要、電力消費量の増大と変電所容量の不足、部品の増加など、いろいろな支障が生じることが予想されるというわけです。
そんな地方線区も、乗客やその地域の「近代化要請」の声には、応えないわけにもいかず、また旧形電車の著しい老朽化による保守費の増大という問題もあり、国鉄としてもいつまでもこの問題を放置できないことから、そのような「ややローカル、小規模検修設備」にも合った車輌の開発を、遅ればせながらすることになりました。
それにより新規開発・投入されたのが、105系直流通勤形電車です。
小規模な設備にも合うように、短編成かつ電動車1輌で走行可能なシステムとし、コスト削減のために既存電車の定評ある部品を使って、コンパクトなシステムにまとめる一方、地域的な特性にも応えられる、ある程度の発展性があるものとされています。
具体的には、クモハ+クハの2輌編成が最小編成単位とされ、かつ単車での増結が可能、3ドアロングシート、103系で実績ある主電動機や台車を使用、ローカル仕様かつ出力の低い変電所を考慮して非冷房…というような車輌に仕上がりました。これらのコンセプトは、後に発展形の119系近郊形電車、121系近郊形電車の出現など、リファインされていくのでありますが、一方で社会的要請による冷房化と、それによる性能低下、国鉄の財政悪化により新製が続かず、103系からの改造編入など、コンセプト全体が変性してしまうという一幕もありました。
ここでは、国鉄電車としては希有な形式であった105系電車を、主に提供画像、購入画像を用いて概観したいと思います。
105系電車の新製投入先は、まず福塩線と宇部・小野田線と決まりました。福塩線は旧形の70系、宇部・小野田線は戦前形旧形国電が使用されていた線区です。
画像は福塩線向けに新製され、完成したクモハ105−7号他。東急車輌(現:総合車輌製作所横浜事業所)構内で、既に表示が「試運転」になっています。Fコレクションより、1981年1月頃と思われます。撮影者不明(Fコレクションと、Bコレクションは撮影者は同じと思われますが、入手先が異なるのでコレクションとしては分けました)。
クモハ105−7+サハ105−3+モハ105−3+クハ104−7の4輌編成。福塩線向けには、4輌編成用にモハ105形とサハ105形が各4輌用意されましたが、あまり使い勝手が良くなかったのか、早々にそれぞれクモハとクハに改造され、形式消滅しています。105系には、少々この手の「手戻り」が多いような気がします。Fコレクションより、1981年1月頃と思われます。
上記編成の反対側クハから見たところ。「パンダ顔」とも言われる、窓周りをブラックアウトして大きく見せ、貫通ドア窓を大きく取り、下端を両側窓の黒い部分と合わせるなど、シンプルながらなかなか良くまとまったイメージの正面スタイル。このデザインは、その後119系や103系1500番台に引き継がれますが、当時の国鉄としては、なかなか斬新なデザインと思えます。クハ104−7他、Fコレクションより、1981年1月。東急車輌構内。
※ページ背景の車号板は、本車が新製時から更新まで付けていたものです。
やや斜めから見たクハ104−7号。よく見ると、乗務員室のドアが少し開いています。行先表示器は201系の車端部配置を踏襲していますが、車内から運転室に向かって右側(画像では手前側)では、運転室部を避け、1つめのドア後部の窓上とされています。この時代の国鉄車に多く見られる方式です。行先表示器のあるところの窓は、二段上昇窓ではなく、その部分のみ下段上昇・上段下降窓となっており、上段窓の仕上げが異なります。Bコレクションより、1981年1月。東急車輌構内。
続々と完成する105系。本車はクハ104−4。後ろはクモハ105−4です。Fコレクションより。東急車輌構内。1981年1月頃。運転室後部の戸袋上部に「シルバーシートマーク」が見えます。クハの運転室後ろがシルバーシートだったようです。
東急車輌から逗子駅専用線に登場した、クモハ105−1+クハ104−1+クモハ105−2+クハ104−2。黄色にブルーの帯はなかなか鮮烈。「ドクターイエロー」っぽい感じも受けますが…。1981年1月20日。逗子駅。Bコレクションより。
宇部・小野田線にも、朱色一色で新製投入されることになりました。試運転を行うクハ104−12他。場所不明。本車は近畿車輌製造のため、試運転が関西地区になっているものと思われます。1981年2月頃?。Fコレクションより。シルバーシートの位置は、福塩線用と同じです。
不思議な編成で試運転を行う、新製配置時の105系福塩線色。手前からクハ104+モハ105+モハ114+クモハ115+モハ114+クモハ115の5M1Tの6連です。なんでこういう編成なのかわかりませんが、もしかすると「異形式併結試運転」なのかもしれません。105系の手前から2輌目が、運転台無しのモハ105形であるところも見逃せません。区間不明。1981年2月頃?。Fコレクションより。
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