試作車の登場と国鉄中央線時代続き



 そんな201系試作車も、試運転を繰り返し、やがて営業運転を始めました。

中央線201系試作車の画像です

 新宿駅に進入する201系試作車10連。この時期の編成は、クモハ200−901+モハ201−902+モハ200−901+モハ201−901+モハ200−902+モハ201−903+クハ201−901+クモハ200−902+モハ201−904+クハ201−902となっており、7連+3連の7連側は、東急車輌製編成にモハ201−903+モハ200−902の日本車輌製ユニットを混結した形になっていました。画像で見えるように、モハ201形は2つのパンタを上げて営業走行しています。また、マスコンなどの形状や色味が異なる先頭車が、2種とも先頭に出た形になっているのが、この時期の特徴です。新宿駅にて、1979年12月1日。Fコレクション・上原庸行氏撮影(著作者人格権上の表示)。

中央線201系試作車の画像です

 かぶっているものが多く、画像としては苦しいところですが、正面運番窓の文字は、試作車では白抜きでした。またそのまわりの配色は、東急車輌製はダークグレー、日本車輌製はライトグレーになっていて、メーカーによる違いが出ていました。この部分は、量産車のデザイン決定に際して、参考にされたのだと思われます。まだこの時期は先頭車運転台形状の比較のためか、下り方に901号(東急)、上り方に902号(日車)を編成して、営業運転させていました。本車はクハ201−902で、運番窓まわりがライトグレーであるのがわかりますが、本車はこのあと中間封じ込めになってしまうのでした。神田駅にて、1979年10月28日。Fコレクション・上原庸行氏撮影。

201系試作車の画像です

 なるべく車体の色を忠実にするよう修正しましたが、これが精一杯というところ。快速として東京を目指す201系試作車。まだ量産化改造は受けておらず、この頃になると、運転室の配色やマスコン、コンソールなどの機器形状を統一するため、常にクハ・クモハとも901番が先頭に出ていました。したがってこの車はクハ201−901です。以下、モハ201−904、クモハ200−902+クハ201−902…と続きます。201系試作車の2個パンタは、回生ブレーキ時の離線防止のために、架線への追随性が良い、PS21パンタを2つ付けたものですが、実際に走らせてみると、1個で十分ということになり、量産車では1個パンタとされました。この画像をよく見ると、もう既に片側のパンタが下がっていますが、後の量産車では、ユニットの外側にパンタを付けることになったので、この画像ですと、手前寄りのパンタが残ることになりました。この画像のように、ユニット内方のパンタを使用しているのは、試作車ならではの光景です。1980年3月、新宿にて。すぎたま撮影。

特別快速として走る201系試作車の画像

 試作車の中央線時代は、あまりいい画像撮影の機会に恵まれず、自分ではたいした画像が無いのですが…。特別快速の運用に入り、高尾へ向かう201系試作車。この画像では、既に量産化改造後なので、手前から2輌目は、モハ200−901を電装解除したサハ201−902です。パンタグラフも1個撤去されており、上の画像で上がっていたパンタは撤去されています。手前から3輌目車輌で上がっているのは、上の画像で下がっている側のパンタです。量産化改造を経ても、縦長戸袋窓、車体直結式空気バネ台車DT46Y、TR231Yは健在です(台車形式はそれぞれYAに変更。ブレーキワークの違いから、DT46XとTR231Xもありましたが、XA・XBに改造変更)1985年頃、立川駅。すぎたま撮影。
 試作車の車体は、103系(最終量産車を除く)までと同様、普通のスポット溶接、屋根上ビニール布張り車体です。それが後年、腐食度に影響しました。詳しくは京葉線と廃車にまつわる記事のところで書きます。


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