部品即売のコーナーがありました。ほとんど何も残っていませんでしたが、103系の側面表示器がありました。しかし幕はこのようにぐちゃぐちゃ。すでに時刻は4時近く…。終了時刻をオーバーしているので、これでも残っている方でしょうか(笑)。
部品で残っていたのは、103系の表示器制御箱とアンプ、指令器?など。それなりの知識がないと、使えないものばかり…。私は硬券のストッカーを売っていたので、それを買いました。103系電車の前窓ガラスを売っていましたが、大きすぎて売れていませんでした。
本日のメインとも言うべき車輌展示は、このように順路としては最終段階のところになります。高尾まで往復してきた武蔵野線用103系E38番編成と、E257系「あずさ」。やはり世代の違いを感じますね(苦笑)。「やたら電車らしい」103系も、まもなく東日本エリアから引退かと思うと、一抹の寂しさも漂います。
反対側にカメラを振ると、次世代車輌ばかり展示されています。このあたりの演出は、なかなかうまいと思いますが、世代交代を実感させるところでもありますね。左からE257系、209系500番台、E231系×2、209系500番台です。向こうから2本目のE231系は、このあとまもなく出庫していきました。
歴代「あずさ」の再現と103系。左端は勝田電車区訓練車の485系を、181系に見立てたボンネット「あずさ」。ヘッドマークはシールです。2本目はクハ183−1500の「あずさ」。これもヘッドマークはシールでした。3本目はE351系の「スーパーあずさ」。4本目はおなじみになったE257系の「あずさ」。そして103系の、「三鷹駅75周年記念号」です。103系は、「みたか」というヘッドマーク付きです。
最後に正門を出たそばの公園に、「三鷹事件」五十年碑というものが立っていました。戦後まもなくの事件で、三鷹電車区に滞泊中のモハ63形、サハ39形、クロハ(またはクハ)65形からなる7輌編成の電車が、「無人」で「暴走」し、車止めを突破して駅前に突っ込んだという「事件」です。
当時戦争の終結とともに、軍国主義や全体主義が否定され、それまで抑圧されてきた労働運動が強くなって来つつある時期、日本の「共産主義化」を警戒したアメリカとの関係において起こった事件とも言われていますが、いろいろな見方があり、今も未解決の事件です。
碑文にあるように、「竹内景助さんの単独犯行」により、モハ63019号の運転室マスコンハンドル(コントローラ)を麻紐または紙紐で固定し、電車を暴走させたと、裁判所も認定していますが、「紙紐」の類で固定できるほど、マスコンハンドルの操作上の重さは軽いものではなく、あの当時のマスコンは、横に忍び錠というカギをさして回す操作が必要だったので、「無人暴走」ということはあり得ません。裁判所が認めた検察側の調書は、これ以外にも疑問点が多く、とうてい一人の人を死刑に出来るほどの証拠足り得ませんが、当時はずさんな証拠に基づいて、判決が下されていた時代でした。
この碑は、労働運動弾圧の手段として、当時さまざまな「事件」が起こったのだとしています。その見方も含めて、歴史を再検証する必要に、われわれ現代人は、迫られているのではないかと思いました。三鷹、と言えば、今も有名な話ですので、特に撮影の上、ここに紹介してみました。