経堂駅には、高架化工事が始まるまで、北側に電留線があり、それを渡るための構内踏切がありました。構内踏切の脇からは、新宿行きの電車を間近に眺めることが出来、子どもたちや大人までもが、よく電車を眺めていたものです。
これを撮影した日は、たまたま9403編成が止まっていました。もっとも、この電車に乗って、学校から帰ってきたのでしたが。地下鉄対応工事が行われる前のデハ9400番台です(ヘッドライト、手すり、ジャンパー連結器が原形)。1977年頃。経堂駅北口入口より。
昼下がり、新宿に向けて上る9000系による6連各停。まだ8連の各停はない時代です。9703ほか6連。玉川学園前−鶴川間にて。1977年頃。
ある日、いつものように経堂検車区まで撮影に行きますと、なんと9000系が2本並んでいるではないですか!。これは、とカメラを敷地の外から向けたのがこの写真です。右の編成は9008編成と後ろは2400系で、「急行 新宿」の表示を出したままです。9000系の4連は、このころ経堂では見かけませんでしたから、急遽何か入庫せざるを得ない状況が発生したのだと思われますが、当時は調べる術も知りませんでした。左の編成は、9406編成です。この時代は、まだ急行の10連運転がない時代ですので、そもそも9000系同士の10連はありませんでした。1977年頃。経堂検車区にて。
経堂駅の北口側にあった電留線は、かつての経堂工場の名残でした。右手に見えるビル(現在もあります)が、経堂工場跡地に立っている小田急経堂ビルです。3本のみ構内踏切ともに残された電留線でしたが、夜間の留置のほか、このように日中も電車が留置されることがよくありました。9000系がデビューしたとき、最初に乗客たちに「お披露目」されたのもこの線路です。37キロの細いレールと、手動式の転轍機が目を引きます。一番左の線路には、ピットのあとがありました。木製の架線柱も、今となっては驚きです。珍しく無表示の9401編成。全検上がりか、床下がきれいです。1977年。現在この位置は、駅下の売店のあたりかと思われます。
登場後間もない9000系4連の二次車。この編成からは貫通ドアや乗務員室ドアがステンレス化され、側面表示が大形の幕式種別表示器(まだ行先は表示されない)になりました。この時期の9000系は、正面の渡り板を上げているものが多いです。左に停車しているのは、前日に暫定開通したばかりの多摩線に運用される1900系。小田急永山−新百合ヶ丘間の暫定開業だったため(翌年小田急多摩センターまで開通)、行先板を使用し、それには「新百合ヶ丘=永山」と書かれていました。1974年6月2日、新百合ヶ丘駅にて。Fコレクションより。
前日に開通したばかりの多摩線から、新宿へ直通する各停。朝方に2本のみ設定され、新宿直通列車が多数運転されるようになるには、その後かなりな年月を要しましたが、それはともかく、多摩線の開通当時は、宣伝のためか9000系がよく使われました。撮影場所の新百合ヶ丘駅も、前日に開業したばかりの新駅ですが、この当時はまるで周囲は山の中であり、今からすれば驚きの光景ですね。デハ9404他6連。まだ3連ジャンパーが付かない原形の9000系6輌編成です。1974年6月2日、新百合ヶ丘駅にて。Fコレクションより。