自由と放縦

 
 どうも、他人をいぎたない言葉でののしる「ベストセラー作家なるもの」とか、重大な問題発言をしたりする議員、ついには人を根拠も無いのに中傷するような市井の人々すら多くて、困ってしまう世の中である。
 それらの人々が決まって言うのは、「表現の自由だからいいだろ」ということである。
 しかし、ちょっと待って欲しい。表現の自由を、本当に質さなければならない場面というのは、実は特殊な状況のみである。自分にだけ、しょっちゅう都合良く「ある」と考えているのではないか。
 こう言うと、意外に聞こえるかもしれないが、市民が権力と対峙する場合、何か言うのは確かに自由だし、自由主義を掲げる以上は、自由でなければならない。それは、権力が暴走しないように、表現を通じて監視するためという目的を持つからだ。したがって、市民が権力と対峙する時でなければ、「表現の自由」は、実は保障されていないと言い切れる。
 憲法に書いてあるじゃないか、と言う人もいるかもしれない。しかし憲法は、「国家権力を縛る道具」であって、大半は市民を縛っているのではない。市民に対しては、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」(第十条)としている。
 常に権力は暴走する。それを押しとどめるのがジャーナリズムであり、したがって表現・言論の自由ということである。実のところ、憲法が保障している「表現・言論の自由」とは、その範疇のことだけと言っていい。
 なぜそう言い切れるか。思い出してみれば、誰でもあることだと思うが、街中で人と話をする時、友人とメールやSNSで文章のやりとりをする時、いずれも「悪口や罵詈雑言を含めて何を言ってもいい」とは言えまい。
 つまり、会話やメールをしながらでも、「さすがにこうは言えないな」という言い方を、巧みに避けつつ話を進め、別の言い方をしたり、そもそもそれについては触れなかったりすることがあるはずだ。それはもう、実のところ表現を勝手気ままになしていることではなくて、「ある制約」を受けた状態、すなわち言論に、一定のブレーキがかかった状態だ。
 しかし、それをして、「表現の自由が侵害された」と言う人はいまい。ここが、権力を質す「表現・言論の自由」と、一般の人が日々使う日本語での「表現・言論の自由」の違いだ。
 作家だっておおむね同じことである。たいていの作家や漫画家、その他の表現者は、よほどの有名どころでないと、編集者から「ここはちょっと…」とか、「今は使わない表現なので変えて下さい」とか言われるものだ。投稿原稿などでは、勝手に直されたりもする。作詞家だって、作曲の段階で勝手にリフレインされたりする。これら全て、実は「自由に表現」していることにはなり得ない。
 これらの慣習が良いことなのかどうかはともかくとして、この種の「制約」に疑問を持つ人は、少なくとも表面的には少ない。たいていは「そういうもの」と受け入れているか、受け入れざるを得ない。かように表現というのは、一定の意見表明だったりするわけだから、それに伴うある程度の制約というのはある。
 だから、一般的な「表現の自由」というのは、「ある程度の範囲内で、表現は自由だ」と言わなくてはならない。実際の「仕事」としての表現は、そういうものなのだ。
 ところが、世の中ブログやSNSのような、短文系メディアに多いのだが、「何でも好き勝手に書いてよい。それに対しての批判は表現の自由の侵害だ」とか言ってしまう、または考えてしまう、今時の言い方をすれば「イタイ」人がいることは、驚きを禁じ得ないけれど、存在していることは確かだ。
 そういう考えに基づいて書かれた文書は、もう「放縦」というのであって、そこに良識的な表現を見いだすことは難しい。これは文章メディアの衰耗ではないのか。「自由」には、責任が伴うなどというのは、小学生レベルの理屈である。しかしその責任を果たさず、言いたい放題な人が、最近多すぎる。おかしなことに、高年以上の世代にも目立つ。いい年をして、そんな分別もつかないとは、恥ずかしいことだ。
 ブログやSNSも、時に高い価値を持つとは思うが、そのような短文系メディアの発達で、無責任な放縦がはびこるのだとしたら、それは人間の退化と言わざるを得ない。放縦表現によって生み出された「フェイクニュース」にすら、人々は安易に飛びつき、新興宗教のように酔い、脊髄反射的に共感し、そして拡散を経て、あたかも自分がその発信者であるかのように、いつの間にか思ってしまう。
 短文であるが故に、よく考えない、よく吟味しない、即時性が高いレスも多くて、なんだか余裕が無い世界になってしまった。だいたい「いいね」と、「よくないね」のボタンを押すだけで、何か意見表明をしたような気分になれるというシステムも、全体主義的で怖い。もっと多様な意見があるはずだ。それを許容しない放縦表現の先の未来は、果てしなく暗いのではあるまいか。「本当の自由」は、勝ち取るものであって、与えられたり、そこに既にあるものでは無いのである。

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