103系電車その実物について

すぎたま編
1.103系の生い立ち

 103系直流通勤形電車は、1963年にそれまで製作されていた101系をより高加速化して試作した、初代クハ103−1〜4,モハ103+102−1〜2を端緒とする。これらは8輌編成に組まれ、山手線に投入された。

 そもそも103系の設計思想は、車体そのものは従来の101系を基本的に踏襲するものの、性能的には主電動機を10%出力増強して、その分低速回転とし、電動車と付随車の比率を1:1とすることを主眼とするものである。したがって加減速は比較的いいが、高速性能を犠牲にしており、その意味では山手線等の短い駅間の線区に特化した性能と言え、その通りに使用されるという前提であれば、当時の国鉄としてはきわめてまれな「専用車輌の誕生」であった。

2.103系の量産と勢力拡大
 103系は翌年から量産され、初代クハ103−1〜4,モハ103+102−1〜2はクハ103−901〜904,モハ103+102−901,902と改番され、量産車と仕様を合わせる改造もされた。一方量産車は山手線に当時投入されていた黄色の101系を総武線に転属させるため、黄緑色の塗色で増備されていった。

 1965年には京浜東北線にも投入が開始されるが、京浜東北線は一部を除いて駅間が長く、既にして103系の性能に合わない線区への投入が始まったとも言える。このときにクモハ103形が誕生している。

 その後103系は小さな改良を重ねながら、増備が続けられ、山手線、京浜東北線、中央線、大阪環状線、阪和線、東海道線の一部区間などに勢力を拡大して行った。このことは国鉄の悪しき「標準化思想」のもと、過度な標準化が進められ、性能的に合わない線区にも103系が投入され続けるという、不幸な歴史の始まりでもあった。しかし一方で、地方には根強く「どうして山手線と同じ電車が、うちの町にも走らないんだ!」という感情論も、あるにはあったことを明記しておく必要があろう。この103系が大量増備された時代は、地域密着より都会との共通性のほうが求められた時代でもあったのだ(この部分、他のHPや雑誌類では、ほとんど見落とされている視点である)。

3.通勤冷房車の登場
 103系の大きな転機としては、通勤電車への冷房の導入を検討するための冷房試作車の登場があげられよう。

 これは今では当たり前の設備になった冷房が、1970年に至り、ようやくオフィスやレストランから、通勤電車へも応用されようとした時期であった。当時の国鉄は103系1編成を冷房付きで新製し、その後の通勤電車の冷房化の可能性を探ることになった。この時クハ103−178号ほか10連が山手線に初登場し、1972年からは待望の量産冷房車が中央線の特別快速に投入されていくことになる。背景には私鉄、特に名古屋鉄道の冷房車投入が1959年とかなり早く、さらに京王帝都電鉄(当時。現京王電鉄)の冷房車投入が1968年であったという事実がある。車輌、特に通勤・近郊形電車の冷房化には遅れをとった国鉄が、急ぎ導入した感もある。

 1974年には山手線、京浜東北線、根岸線の保安度向上のためのATC導入が計画され、ATCを搭載できるクハ103(−269〜)の新製が開始された。この時からクハ103は運転台を高い位置とした。また1972年以降の中間車は全て冷房付き(わずかな例外あり)で新製され、在来車の冷房改造も始められたが、なかなか冷房化率は上がらなかった。

 103系には地下鉄乗り入れ用(1000番台、1200番台、1500番台)、超多段制御器試作車(910番台)、アルミ車体(301系)など様々なタイプの車輌が作られ、1982年までに3400輌あまりが製作された。この時点で北から仙石線、常磐線快速・普通、山手線、赤羽線(現埼京線)、中央線、青梅線、五日市線、横浜線、京浜東北線、総武線各駅停車、武蔵野線、少し遅れて京葉線(新規開業)、東海道線一部区間、中央西線(名古屋近郊)、大阪環状線、片町線(現在廃線)、東羽衣線、奈良線、関西本線一部区間、阪和線、福知山線の一部、筑肥線に投入されていた。当初の設計思想などどこかへ行ってしまっていたのは、もはや言うまでもない。この2年前から次世代の通勤電車201系の量産が始まり、既に増備の主役は移っていたが、赤羽線10輌編成化などのため103系の平行製作も行われていた。

4.103系の増備終了と転配の始まり
 1982年で103系の増備はおしまいかに思われたが、1984年山手線の増強用に4輌が新製され(モハ103−792,793、モハ102−2049,2050)、この車が本当の最終増備車となった。またこの時期から、それまで使用していた101系の老朽化による置き換えが本格化して、南武線や総武線への転配なども盛んに行われるようになり、大阪地区から東京へ、その逆の転属などもあり、福知山線用の黄色い103系が常磐線に入ったりして、混色編成もよく見られた。川越線の電化開業もあり、埼京線の新宿延長に伴う配転など、動きも激しかった。特に川越線用の103系は、旧型国電の72系970番台の更新されていた車体を流用して、下回りを103系のものと取り替えるという、国鉄の逼迫した財政を象徴するような車輌となっている(JRに継承後冷房化されて長く活躍したがすでに廃車)。南武線はそれまで101系の冷房改造車が使われていて、しばらく101系が安泰かに思われたが、201系投入により、余剰となった中央線の103系が転属してきて、101系の非冷房車を置き換え始め、1986年には過半数が103系となった。しかし全面的に置き換えられるのは、JRになってからである。

5.JR化後の103系
 1987年4月1日、日本国有鉄道は6つの旅客会社と1つの貨物会社に分割民営化され、103系もJR東日本、東海、西日本、九州の4社に分割配置となった。これにより、大阪と東京の車輌交換などはなくなることとなった(一部譲渡車をのぞく)。

 JRとなってからも、老朽101系置き換えのため、205系を新製して103系を置き換えて、その103系で老朽101系を廃車にするという流れにより、盛んに転配が行われるようになった一方、地方線区への転属などにより、その線区向けの改造車も登場するようになった。そしていよいよ103系にも廃車の手が伸び始める。

6.103系の衰退期
 103系はその性能が徐々に時代の要請に合わなくなってくるのと同時に、その悪い乗り心地や、実用優先の車内などが陳腐化してきた。そのため各社とも改善のための更新工事を、比較的新しい車輌には施す一方、状態の悪い車輌は、惜しげもなく廃車するという方針が、明確化してきた。これは元号がかわった1990年代に入ってから顕著になり、特にJR東日本では、総武線の103系が配電盤から火を噴き、乗客にケガをさせた事故が契機となって、一時製造後わずか18年の車輌までもが廃車されるという、狂気的な廃車も行われた。

 東日本では、2006年までに103系を全廃し、E231系などの新型車輌に置き換えるとして、実際にほぼ計画通りに置き換えは実行された(例外的に4輌のみ、仙石線に残存。東日本エリアでは、唯一のトイレ設置まで行われ、細々とではあるが、2008年に至っても活躍を続けている)が、JR西日本は延命工事をかなり深度化させて施工した車輌が多数あり、ここしばらくは安泰であろう。

 しかし103系全体を取り巻く情勢は、車内装備、エネルギー効率などの点から、厳しい状況となっており、2010年代にはこの地上から過去帳入りすることは確実と見られる。

7.103系の晩景
 いずれにせよ、世界的に見ても単一の形式を3500輌も20年にわたって作り続けた例はなく、世界最大の通勤電車グループと言えるが、その系列としてみたときの生涯は、あまり幸福なものとは言えなかったように見える。特にもっと早い時期に制御器の添加励磁化改造(回生ブレーキ装備による省エネルギー効果)や、内装のリニューアルをしていれば、もう少し違った評価となったのであろうが、原設計が1960年代のもの引き継いでいたこともあり、さすがに21世紀に通用するものではなかったと言える。その意味では、大量製作の弊害が現れていることは明白であろう。しかし趣味的にその歴史を見た場合、103系の歴史そのものが日本の産業の歴史であったとも言え、その意味で地味な存在に徹した103系には、夢やぶれていく企業戦士の背中を見る思いである。是非歴史的車輌として、数輌はイベント用にでも保存されることを望む(JR東海ではクモハ103−18を美濃太田運転区に先頃保存した。JR東海は既に103系を全廃している)。

特:南武線103系の歴史について
 南武線の103系の歴史は、以外と浅い。

 南武線では、1970年代末に至っても、戦時設計車を含む72系電車が活躍していた。しかしこの系列の老朽化、陳腐化は激しく、特に私鉄電車と多く交差する南武線では、床や内装が木製の車輌を含んでいる72系の置き換えは急務であったにもかかわらず、長く101系との併用が続いていた。これは置き換えの原資にする電車がなお当時不足していて、なかなか南武線には回せなかった事情が絡むようだ。

 そんな南武線であったが、ようやく1979年全面的に101系への置き換えが完了する。それでも冷房車は半数程度で、一部は南武線独自に冷房改造をしたりもしたが、中央快速から冷房付きの101系が、103系または201系によって玉突きされてくるのを待つ状態であった。しかしそもそも101系は既に老朽化が進んだ車輌もあり、新車が全くやってこない電車区(中原電車区)や、利用客には不満がつのっていた(ただしスピードアップは少し実現した。登戸−立川間が29分運転でなくなったのはこのときである)。

 そこで首都圏の旧型電車置き換えが終了して一段落した1982年夏、またしても新製車ではなかったものの、103系が投入され、101系の老朽車置き換えが始まった。この時投入されたのは、主に中央線からの転属車で、朱色のまま使われるものもあったが、基本的に全てが冷房車であった。しばらく103系の差し替えも含んだ転配が続くが、101系との併用はなかなか終わらず、状態の比較的良好な101系は総武線にいったん戻されたり、鶴見線に転属して使用されたりもした。

 JR東日本となってからの南武線には、ついに国鉄時代を通して始めてとなる完全な新製車205系が投入され、101系の全廃と、103系非冷房車(1本のみ存在)の駆逐が行われた。205系は順調に増備され、15本を数えた(のちに山手線より転用でさらに増える。くわしくは後述)。この間103系の廃車が始まったこともあり、クモハ103−11など初期の車輌は冷房車であっても廃車となった(このクモハ103−11は例外的に鎌倉総合車両所入れ換え車として、車籍はないものの長く活躍した。しかし同所の廃止とともに惜しくも解体された)。

 東中野駅追突事故を受け、一時南武線用の103系が総武線に貸し出され、クモハ103−69が総武線を走る一幕もあったが、事故の再発防止策として導入が決定された、新型のATS、「ATS−P」の取り付けに際して、クモハ103は改造が比較的大がかりとなるため、鶴見線に転属とし、同線の101系を置き換え、南武線の編成は両端をクハ103として、中間にモハ103+102を2組入れた編成に統一することになった。これにより大井工場や土崎工場で更新工事を受けた、黄色系の車内の車輌が一時中間車を中心に多数投入されたが、京浜東北線への209系の開発投入、総武線への209系500番台とE231系の開発投入による余剰車の転入、南武線そのものへの209系2編成の投入により、特に中間車を中心に顔ぶれは変わっていて、車内更新車であっても電装品が古い車輌は廃車となっている。

 山手線へのE231系投入により、そこから発生する205系での103系の廃車が急速に進められた結果、最後まで残っていた第22番編成を最後に全車引退し、南武線103系も過去帳入りした。