FS−201台車の謎

 
 住友金属のFS−201台車は、記録によれば1952年12月、名鉄に試作品として2台(1輌分)が納入されています(文献1)。直角カルダン駆動方式の第1号で、ゲルリッツ式の軸箱支持方式、車軸に対して直角方向に主電動機MB3002(三菱電機製)を配し、カルダン軸継ぎ手を介して、「すぐ歯傘歯車」という傘形の歯車で、車軸に取り付けられた大歯車を回します。吊り掛け駆動以外の方式で、110kwの出力がある電動機を、当時狭軌で搭載できる唯一の方式が、直角カルダン駆動でした。この台車の成績は、特に悪くはなかったようですが、カルダン駆動にしては騒音が大きく、「すぐ歯」(噛み合う歯が直線状)ではなく、「まがり歯傘歯車」(スパイラル・ベベルギア。噛み合う歯が曲線を描く)で駆動する方向へ進化し、「すぐ歯」のものは本台車のみであったようです。また、台車のボルスター(上揺れ枕)に穴を開け、そこにカルダン軸を通したため、カルダン軸の曲がり量が大きくなり、この点は、その後の台車でボルスターを上に曲げて、その下にカルダン軸を通す方式に改良されています。
 以上のように、本台車は完全な試作品と呼べるものではありましたが、名鉄ではモ3501号に取り付けて(文献1)試験を行い、有効なデータを収集できたようです。
 しかし、ここで疑問が生まれます。
 それは、このFS−201は記録によると2台(1輌分)しか作られなかったのに、1952年12月に名鉄へ納入・試験とすると、国鉄モハ40044に付けて、さらにはモハ40030に付け替えて、1953年3月中旬から4月上旬に小田急で試験したFS−201は、どこから来たのか?、ということです。名鉄でのFS−201台車は、その後モ3851号に取り付けられ、発電制動の試験も行っているようです(文献3とホームページ5)。1954年頃に撮影されたとする写真も残されています。
 ここをわかりやすく書くと、
      1952年12月  1953年3月〜4月       1954年頃
名鉄    モ3501で試験−−−(不明)−−−→モ3851で試験−−−→?
国鉄・小田急          モハ40044、030で試験−−→返還?

…というように、同じ台車が名鉄と小田急の2社で試験されたことになっています。これがこの台車の最大の謎と言えるでしょう。名鉄と小田急、本当に2社で試験をしたのでしょうか?。
 仮説としては、名鉄に納入・試験中の台車を、JREAが一時的に借用し、国鉄モハ40に取り付けて、小田急線で試験を行った。その後元通り名鉄に返還され、同社では発電制動の試験のため、モ3851に取り付けて試験を継続した。それらの試験データに基づき、国鉄はキハ44000形電気式気動車の後位台車に直角カルダン駆動を採用(台車形式DT−18)し、小田急はデハ2200形を1954年に登場させ(台車形式FS−203)、名鉄はモ5000系を1955年に登場させた(台車形式FS−307)…というものが成り立ちます。
 文献1には、名鉄のモ3501に取り付けたとあります。しかし文献2によりますと、モ3501には1951年7月より東芝TT1を取り付けて試験をしたと記載されており、FS−201はモ3851に取り付けられた、とあります。そしてモ3501にTT1が付いている写真が掲載されており、それには1952(年)というキャプションもあります。一方FS−201台車の写真も掲載され、それには「1954頃」というキャプションが付きます。
 文献2は、文献1も引用文献としている一方、1952年頃に発表された論文や、「電気車の科学」誌も引用しており、引用元の間違いがあるとは、考えにくいかと思えます。
 そうすると、時系列的に見ると、
1.1951年2月、小田急の相武台前−小田急相模原間で「相武台実験」と呼ばれることになる、カルダン駆動(東芝TT1A)やクイル駆動(日立KH−1)の試験があった。
2.1951年7月、東芝は「相武台実験」の結果を受けて、TT1台車を完成させ、名鉄モ3501に取り付け、試験を行った。
3.1952年12月、住友金属工業のFS−201台車完成。名鉄モ3501または3851のいずれかに取り付け試験を開始した。
4.1953年3月下旬、国鉄モハ40044に住友金属工業のFS−201台車を装備して、小田急電鉄にて試験を行った。4月に入ってからは、モハ40030に移して試験を続行した。
5.1953年4月上旬試験終了に伴い、国鉄モハ40044とモハ70043(DT17台車試験提供用)、モハ40030が小田急から国鉄に帰った。
6.1953年4月中旬頃?、名鉄にFS−201台車返還?。モ3851号に装備?。試験続行?。

 結局、現状筆者が所有している文献では、3と6がはっきりしません。また、東芝の試作台車TT1が、相武台実験の時のものにはTT1Aと「A」の枝番が付くのに、それより後に完成した台車には、Aが付かないという、通常とは逆のケースなのも気になります。これは、もしかするとTT1AとTT1の関係が、文献の記述と逆なのかもしれません(例えばTR23台車でも、標準形で1930年代初頭に量産開始のものは、ただのTR23です。流電の付随車サロハ46→66やサハ48029〜035に装備された輸入コロ軸受け付きはTR23A、戦後まもなくペデスタル部を大きくし、コロ軸受け用をあえて平軸受けにしたと思われる70系戦災復旧客車などに装備のタイプはTR23B…と、A、B…という補助的な文字は、量産後の改良品や改造品などに付けられるのが普通です)。
 一番すっきりするのは、小田急での試験時には、MB3002モーターとFS−201台車の組み合わせで、発電制動の試験は行われなかったが、名鉄に返還されてからは、モ3851に取り付けられ、発電制動の試験を行った(3850系は、当時発電制動装備車。文献3と文献4による)、という流れでしょうか。
 最終的に、FS−201台車がどうなったのか。それもよくわかりません。名鉄の車輌で、モ3851号のその後も含めて、装備していたという話は無いようですので…。この種の試験台車の類は、人知れず消えていくものなのでしょうか。

文献1:電気車研究会刊、「鉄道ピクトリアル」第453号、68ページ。鈴木光雄。
文献2:電気車研究会刊、「鉄道ピクトリアル」第726号、68ページ。外山勝彦。
文献3:電気車研究会刊、「鉄道ピクトリアル」第726号、69ページ。外山勝彦。
文献4:交友社刊、「私鉄電車のアルバム」1B巻、333ページ。慶応義塾大学鉄道研究会編。
ホームページ5:http://www15.plala.or.jp/hidekih/gijyutushi34.htm
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