これから「新しい国電」として、長く活躍する予定であった201系に、最初の大きな転機が訪れたのは、なんとその設計・運用母体である日本国有鉄道の「民営化」でした。既にステンレス通勤車の205系も登場し、増備打ち切りからそう日もたたずに、一企業である「JR」に「無償譲渡」されるという事態を迎えることになったわけです。このことには、私たちファンも驚きを隠せませんでした。
1987年3月も中下旬になると、「さようなら日本国有鉄道」なるマークが、首都圏各線の電車に付き始めました。そして3月31日、筆者は、胸に「国労連帯バッジ」(国労=国鉄労働組合は、最後まで分割民営化に反対し続け、「組合選別はしない」とした政府答弁とは裏腹に、多数の解雇者を出し、職場には「国労つぶし」と、不自然きわまる「組合差別」の嵐が吹き荒れました)と、民営化反対の自作バッジを付け、首都圏の国鉄各線に向かったのでした。
画像は東京駅2番線で、折り返し待ちの「さようなら日本国有鉄道」マーク付きクハ200−19他10連。まだ夜の10時すぎなので、それほどの関心を示す人はいませんでした。右側にちらりと写る人は、鉄道ファン系の方のようでした。201系のすっきりした、JRマーク無しの姿も、今日で見納めという図です。
東京駅中央線ホームも、新幹線のホーム増設に関連して、直上の2階部分に上げられ、今はかなり印象が変わっています。
新宿駅に移動しました。もちろん201系に乗って。上りの東京行き(左)はまだ運転しています。右側は特別快速(クハ200−15)ですが、この時期は大形のヘッドマークを廃止しています。そのため行先表示に小さく表示されるのみ。JR化後しばらくしてから復活しましたが。この日だけなのかわかりませんが、上り東京方面は、5・6番線2つのホームを使って交互発車していました。
下りの特別快速高尾行きが発車していきます。いよいよ0時が迫ります。下り方面もこの日のこの時間、交互発車だったようです。
そして埼京線の下り川越行き最終電車が発車すると、国鉄がJRへと変わる瞬間、0時がやって来ました。この時、中央線列車ホームに、115系夜行普通列車があるのみで、それ以外全くどのホームにも列車がいないという、普段の新宿駅では見られないような風景が。しかし、特に0時に意識している人など、私しかいないような感じだったのが思い出させます。
0時過ぎ、下りの最終通勤快速高尾行きが発車していきました。もうJR中央線の列車ということになります。すると、止まっていた115系の横腹に、突如大きなJRマークが出現!。いつの間に…。かなりなショックでしたねぇ。
厳密に言うと、もうこの画像は「国鉄時代」とは言えないのですが、まあ列車の運転は続いていたので、便宜上ここに載せます。
「さようなら日本国有鉄道」マーク付きの、快速豊田行きが新宿をあとにします。時計は0時14分を差しているのがわかります。左奥には山手線103系の姿も。最終も近いので、駅員さんがいつものように掃除をしています。この画像からは1987年4月1日撮影、ということになります。
上り最終東京行きが発車。こうして「国鉄の201系」は、終焉を迎えました。