なお、203系で特筆するべき事件として、「地下鉄サリン事件」があります。地下鉄各線で猛毒の「サリン」がまかれ、多数の死者や重傷者を出すという未曾有の「地下鉄を使ったテロ」でありました。このうち千代田線では、JRから営団地下鉄へ乗り入れていた、松戸電車区67番編成の先頭車、クハ202−107号車内で「サリン」がまかれ、駅助役と応援助役の2名が死亡。多数の重軽傷者を出しています。事件から20年以上が経過したこともあり、この車についても、今まで公開されていないような画像も含めて、別にページを立ててご紹介することにします。
新製直後、川崎重工から首都圏に回送されるクハ203−1他10連。鷹取駅にて。Fコレクションより。1982年8月。
登場時、正面の右上には当然ながら「国鉄」のマーク、「JNR」が掲げられています。後の国鉄分割民営化では、この表示の上に黒いシールを貼り、さらにその上に「JR」のマークが貼られました。
第一編成は、側面幕板部に「地下鉄乗り入れ車」であることを示す、「青いJNRマーク」が無く、車号がエッチングプレートになっており、青緑色の文字で車輌番号が記入されていました。
ドアは一貫してアルミハニカムドアが採用されていますが、振動によるばたつきがうるさく、ここはステンレスドアのほうが良かったようです。冷房装置を最初から搭載して登場していますが、ステンレスキセのAU75Gを搭載し、地下鉄線内でも冷房を稼働させていました。その他変わった構造なのは、側面外板をやや高い位置まで立て、そこに屋根部を落とし込むように接合して、間の部分に雨樋を隠すという、かつて72系920番台や、101系試作車などに採用された方式に準じており、側面の清掃が楽なように改良されています。台枠部の側梁に当たる部分が露出しており、外板とは台枠上面位置で接合するという、モハ63形→72系改造車に見られるような構造に、簡略化もされています。戸袋窓は、201系と異なり廃止されています。
福岡市営地下鉄開業時、筑肥線と相互乗り入れするにあたり、本車の増備が検討されたことがありましたが、筑肥線内の列車運転間隔がやや長いことから、回生ブレーキが十分に働かない(負荷になる電車が少ない)懸念があったため、結局彼の地へは103系1500番台が新製投入されています。
今から見ると、案外角張った印象の電車ですね。そこは201系とかなりデザインの方向性が違う気がします。登場当時、模型誌では、「シャム猫」などとあだ名されておりました。
同じ日に撮影されたと思われるクハ202−1号の画像。この時点では、川崎重工の試運転で、ヘッドマークが付いています。まだ国鉄に引き渡されていない状態です。アルミ製なので、側面の台枠・側梁部分がやや厚めです。またドアの周りは45度に面取りされたようにへっこんでいますが、新製時からJR移行初期までは、ごらんのように側面帯が面取り部にまで回っていました。鷹取駅にて。Fコレクションより。1982年8月。アルミの輝きは、未来的で美しいです。
203系の第1編成は、単純に所要増に伴う新製でしたので、その時点では103系1000番台の置き換えは行われませんでした。しかし、その後2年を経て登場した第2編成からは、103系1000番台の置き換え名目で作られています。画像はその第2編成が、試運転を行っている様子です。
第2編成以降の変化としては、車体中央部に表記された形式番号が、エッチングプレートから車体への直接転写に変更(色も青緑1号から黒に変更)されていることと、窓上部に青色でJNRのマークが表記されたことが挙げられます。その他細かい変更があります。1984年。鷹取駅。Fコレクションより。
なお、窓上のJNRマークは、両先頭車の運転室に向かって右側前部のもののみ、行先表示器にかかるため、わずかに後ろ寄りにずらして表記されています。これは意外に見落としがちな、国鉄時代の特徴です。
同編成の反対側。川崎重工の試運転時、ヘッドマークは進行方向のみに掲げられるのでしょうか。こちら側には付いていません。クハ202−2号。1984年。鷹取駅。Fコレクションより。客用ドアの周りの面取り部、やはり側面帯がそこまで回っているのがわかります。