さて、当時大学で働いていた私は、その後都心部近くにある大学で働くことになりました。毎朝、千代田線に乗車しての通勤です。そのため、千代田線に乗り入れているJR車輌に、通勤時乗車することも多く、クハ202−107号のことは実はよく知っておりましたが、地下線内では先頭車に乗る機会も無く、その車を選んで乗車ということはあまり考えてもみませんでした。
しかしある日、代々木八幡駅のホーム跨線橋に残る古レールを観察に行こうとして、代々木上原駅の折り返し線に、松戸電車区第67編成が待機しているのを見つけました。そこで、ふと週刊誌に書かれていた実際の現場である「運転室に向かって右側、前から2番目ドアのすぐ後ろ寄り」の座席に、何か痕跡が残っていないのか観察してみることにしたのです。
代々木上原駅は、2面4線のホームを持つ駅です。中央寄りの2、3番ホームが千代田線、両外側の1、4番線が小田急線となっています。3番線に止まっていた我孫子方面行き(北行き)を見送ると、折り返し線から松戸電車区第67番編成(203系)が、クハ203−107号を先頭に入ってきました。ホームに据え付けを完了後、ドアが開き、ぽつぽつと人が乗車を始めます。しかし、一番後ろになるクハ202−107号には、たまたま誰も乗車する人はいませんでした。
そこで、あの事件の日、林郁夫受刑者が座った席に座り、床を見て見ました。すると、床に妙な傷が見つかりました。馬蹄形の傷です。
「傘の先端を尖らせて」と、当時の報道にありましたから、もっと深くえぐったような傷かと思っていましたが、なぜか馬蹄形の「テスト用紙に丸を付けた」ような傷が、事件から8年が経過していたのに、不鮮明なものも含めれば、10カ所くらい見つかりました。他の場所にもあれば、それは事件の傷ではありません。杖や固い靴底の傷と言えるでしょう。ところが、この形の傷は、その場所でしか見つからないのでした。しばらく床を凝視しながら、全てのドア脇を見たのですが、やはりこの「運転室に向かって右側、前から2番目ドアのすぐ後ろ寄り」の座席の前にだけしかありません。疑念が確信に変わった瞬間でした。
赤い矢印で示したのが、その傷です。不鮮明なものも含めれば、ざっと8カ所ほど見つかります。靴が見えますが、私が履いている靴です。それからしても、サイズ的に傘の先、石突きのところの寸法にほぼ合致すると思われます。
この傷は、かなり子細に見てみたのですが、やはりこの場所からしか見つかりませんでした。大きい画像はこちら。
当時はデジタルカメラで、あまり鮮明に写るものは無かったので、もっぱら古レールの調査や、電車の撮影にはフィルムの一眼レフを使用していました。コンパクトカメラでは、レンズが暗いせいか、ぶれが生じやすいこともありましたし…。
それでも、この傷の様子は、現像に出して返ってくる「サービス版」のプリントでは、はっきり見えず、かろうじて左上の矢印のものが見える程度でした。今回、最新のフィルムスキャナーを用いて、割と詳細な画像を得ることに成功した次第です。
電車の床は、金属製の波板のような床基礎材に、樹脂材などを注入し、その上に床敷物と呼ばれるものを張ったり、流し込んだりして仕上げます。乗客の激しい乗降にも耐えるように、かなり丈夫に作られています。そのため、もし傘を「先端を尖らせた」のであれば、付く傷はもっと鋭角的なただのくぼみになるはずです。また報道によれば、コンビニで買った傘を加工したとされています。少なくとも当時売られていた、安手のビニール傘は、石突きのところは、最先端に向けてややテーパーが付いたパイプ状のものであり、先端は安全のため丸めてあるとは言え、その部分は中空なので、横から研磨すると、容易に穴が開いてしまいます(実際強く傘立てなどに差し込んで、石突きを曲損した人は多いと思います)。つまり、何かを刺すほどの強度は無くなってしまうと考えられます。おそらく、傘を加工した犯人も、そのことに早い段階から気づき、先端を単純に尖らせるのではなく、石突き部をいったん切断し、パイプ状になった先端部を薄く加工して、あたかも「刃をつける」ことで、目的を達成しようとしたものと考えられます。まあ、それでも、「どこかを尖らせた」ことには違いないのかもしれませんが…。
結果として、刃の付いたパイプ状になった傘先端で突き刺した結果、傘はサリンの袋を貫通し、その下に敷かれている床敷物にまで到達し、傷を付けたものと考えられます。
それにしても、許しがたい行為です。この画像を見ると、撮影した当時より、今の方がむらむらと怒りがこみ上げます。
あの日、この電車の中で、何が起こったのかの、わずかな一端に触れた私は、座席から立ち上がり、この電車を見送りました。クハ202−107号を含む10輌の列車は、綾瀬に向けて発車していきました。何事も無かったかのように…(全て画像は2003年3月28日撮影)。
後日、再度この編成に乗車する機会があり、代々木上原駅から新御茶ノ水駅まで乗車しました。あの日、林郁夫受刑者が座ったのと同じ座席に座り、電車の進行とともに、車内の風景を観察していました。
林受刑者は、おそらくは公判で「近くに若い女性が来た。向こうに行ってくれ、少しでもみんな離れてくれと思った」旨、報道によれば語っています。その割にはずいぶんしっかり何度も刺しているなという印象ではありますが、それはともかく、実際に林受刑者と同じ視点で見ていますと、端の席ですので、肘掛けを兼ねる仕切り板からステンレスのポールが立ち上がり、網棚につながっているのが見えます。それを何人もの人が、駅に着くたびにつかんでは離しを繰り返しています。若い人もいれば、高年の人もいました。なるほど、もし自分がこれから重大な犯罪を起こそうとしているとしたら…、かなり動揺し、葛藤があるだろうなとは思いました。本当に電車は、あらゆる年齢層の、あらゆる立場の人を乗せています。しかし、鉄の箱である(203系はアルミですが)電車の中では、全部の人が「運命共同体」でもあるわけです。そんなところで、猛毒を発散させたとしたら…。改めてその恐ろしさに、いやな汗と動悸を感じました。
林受刑者は、優秀な心臓外科医であったそうです。しかし、どんな優秀な医師でも、救えない患者は救えない。この精神的葛藤は、医師・看護師・獣医師・救命救急士・薬剤師など、およそ医療・看護・救命に携わる人全てが持つものであろうと思えます。その中で、林受刑者が、救えない命があることに矛盾や空虚を感じ、宗教にその救いを求めるようになった心理自体は、責められないのではないかと思います。同じような心理は、多かれ少なかれ、誰もが経験し、または考えていることではないでしようか。しかし、それがどうやって「救済の名の下で大量殺人を企図」へつながってしまったのか。その答えは、永遠に出ないかもしれません。ですが、我々は求め続けなければならないようにも思えます。また、鉄道車輌に命があるわけではありませんが、この203系を始めとして、日比谷線の03系、東武20000系、丸ノ内線の02系たちは、永遠に問い続けるのではないか。そのようにも思えるのです。
事件から20余年が経過し、203系は既に全車が廃車となって、あるものは解体され、あるものはインドネシアに譲渡され、また本車を含む4編成はフィリピンに譲渡されました。本車は彼の地で客車として使われていましたが、現在(2018年)は編成から外れ、予備車輌となっているようです。
※事件の関係者の方へは、本画像の超高解像度版がありますので、提供の用意があります。ご一報下さい。