小田急2200系列のドア外観資料

 小田急初の高性能電車となった、デハ2200形をはじめとする、2200系列の電車は、デハ2200形、デハ2220形、デハ2300形、デハ2320形に分類されます。
 このうちデハ2200形は、駆動方式に直角カルダン方式を採用、日本で最初にHSC−D形発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキを採用した、当時としては非常に高性能な電車でした。なお、最終製作車のデハ2217−2218は、車体・下回りからはデハ2220形と言えますが、最初から2輌編成で製作されたため、デハ2200形に入れられています。
 またデハ2300形は1955年に製作された、デハ2200形同様の足まわりを持つロマンスカーで、後に2ドアセミクロスシートに格下げ改造、次いで3ドアロングシートの2輌編成に改造され(この時、搭載機器の関係から2301と2302が車号を交換)、普通の通勤車輌になりました。ドア間4枚あるやや狭い窓が特徴です。
 デハ2220形はデハ2200形を改良し、貫通形正面に戻した上で、WN駆動に駆動方式を改めています。当初は4輌編成で、トイレつきという、長距離急行用という位置づけでしたが、後に中間車を運転台付きに改造、全て2輌編成化されています。
 デハ2320形はデハ2220形を発展させた2ドアセミクロスシートの車輌で、当初は急行や準特急を主体に運用されました。デハ2220形と同様トイレつきでしたが、日本で初めてトイレにタンクを設け、垂れ流しにしない車輌でした。しかし年々激化する通勤輸送混雑の中で、全車が2輌編成、3ドアロングシートに改造され、他の系列と同様に扱われるようになりました。窓配置を大きくいじらなかったので、やや不規則な窓配置が特徴です。

 これらの系列は、駆動方式の差はあれども、全て同一性能と呼べるものでしたから、一括して「FM系」などと呼ばれていました。そしてこれらの系列は、その改造の経緯からか、ドアの形にいくつかのタイプと、車輌によってまちまちな取り付けパターンがあり、同一車輌に2種のドアが使われているなど、特に晩年は混乱しておりました。そこで、これらの車輌を1輌1輌調査した資料がありますので、ここに公開します。調査時点はおおむね1980年頃です。雑誌などで写真がわかるものは、それとの比較も必要に応じて行いました。

 まずドアの形状は以下の3種です。模式図では省略しておりますが、全て窓ガラスはHゴム止めです。また左側を戸当たりゴムとして、車体の外側を描いたものです。

小田急2200系の小窓タイプドア模式図
 これは「Aタイプ」と呼びます。やや小さめな窓が特徴で、比較的後年に取り付けられたものは、基本的に全てこのタイプです。窓ガラスはHゴムで止められ、窓の上の辺は、客室窓の上辺より少し上に出ており、窓の下の辺は、客室窓サッシの下のライン(手で持って上げる部分の、サッシとガラスの境目)より、少し上になります。

小田急2200系プレスドアの模式図

 これは「Bタイプ」。いわゆるプレスドアと呼ばれるもので、窓の下に、角の丸い長方形のへこみがあるものです。このへこみの理由はわかりませんが、戦後しばらくから、1960年代半ば位までに取り付けられた車輌が多いので、補強を兼ねて着物(和服)のたもとやすそをドアが開く際に巻き込まないようにするためでしょうか?。小田急では主としてデハ2200形が、その後の交換でデハ2220形にも使われています。窓の上辺は、「Aタイプ」とほぼ同じ位置、窓の下辺は、客室窓サッシの下辺と一致しています。

小田急2200系大窓ドアの模式図

 これは「Cタイプ」。大きめな窓が特徴です。プレスによるへこみはなく、窓の上辺は「Aタイプ」などよりさらに上の方、窓の下辺はおおよそ「Bタイプ」と同じ位置です。もともとはデハ2200の後期車と、デハ2220形が装備していたものですが、その後交換されたのか、数は少なくなっていました。
 
 

車輌番号

山側

海側

車輌番号

山側

海側

2201※1 2202
2203 2204
2205 2206※1
2207※1 2208
2209 2210
2211※1 2212
2213 2214
2215 2216
2217※5 2218※5
2221 2222
2223 2224
2225 2226
2227 C※2 C※2 2228
2229 2230
2231 2232
2233 2234
2235 C※3 2236
2301※4 2302※4
2303 2304
2321 2322
2323 2324
2325 2326
2327 2328

●表は全て左側が新宿方(上り向き)。
※印は特異車。
※1のデハ2207とデハ2211、デハ2201とデハ2206は、一時三菱MD101台車を試用。平行カルダン駆動方式の試験をした(下画像参照)。
※2のデハ2227号は、海側、山側ともに新宿方1枚目のドアのみ、Aタイプになっていて、1輌にAとCが混在。おそらく何らかの事故に遭遇し、復旧時にドアを交換したものと考えられる。
※3のデハ2235号も同様で、海側の新宿方1枚目のみ、Aタイプになっていた。これも1輌にAとCが混在。踏切事故にでも遭遇・交換したか。
※4のデハ2301と2302は、ロマンスカー時代編成が、Mc−M’−M’−Mcとなっていたのを、2輌編成3ドアに改造するとき、新宿寄り2輌を方向転換。車号を交換し、M車に運転台を取り付け、他の編成に合わせてMc−M’cとしたため、床下の機器類も他の編成と海側山側反対になってしまっていた。例えばコンプレッサーは、この2200系列では基本山側に位置しているが、デハ2301のみは海側に付いている。
※5のデハ2217−2218の編成は、1959年に増備された車輌で、既にWN駆動方式が一般化していた時代の車輌であったため、デハ2220形に合わせて作られた。そのため前面は貫通形で、それまでのデハ2216までとは様々な点で仕様が異なっていた。特に台車は、小田急初の空気バネ台車FS−321を装着しており、これは廃車まで使われたのち、伊予鉄道に譲渡。同社の700系(元京王帝都電鉄5100系)に装着されて使用された。しかし大きなボルスターアンカーが災いし、車輪転削盤にかからないという理由により、他の台車に交換され淘汰された。
 

その他の歴史から追う事実など

●デハ2200系列の空気圧縮機は、1977年頃まで3−Y−Cというベルト駆動タイプを使用していました(作動音はC−1000に類似)。しかし、4000系がそれまでの空気圧縮機DH−25(HB車時代から引き継ぎ?)を、C−2000Mに交換するのと同時に、発生したDH−25を2200系に取り付け、3−Y−Cは淘汰されています(搭載車も偶数車から奇数車に変更)。現在保存車となっているデハ2201号にも、DH−25が付いており、原形と異なります。
●列車無線無しのため、中間に封じ込められた車輌と、デハ2200形の多くには密着連結器下に電気連結器が取り付けられず、海側にあった3連ジャンパー連結器で、電気的連結をしていました。なお、デハ2200形の奇数車(新宿方)の、前面下足かけは、鉄板で作った車のバンパー形でしたが(上面は網になっていた)、この3連ジャンパー取り付け時に、ただの棒を溶接したものに交換されています。偶数車には原形が残っていました。
●列車無線が取り付けられなかった車輌も、なぜか多摩線の2連運用や試運転時には、先頭に出て運転された記録写真が残っています。多摩線は踏切が全くありませんが、それと関係がありそうにも思えるものの、はっきりとした事情はわかりません。
 

時代から追う変化など

●デハ2200形の原形ドアは、CタイプからHゴムをなくして、さらに窓をやや角形にした軽合金製のものを、1961年頃までは装備を確認(これも下画像を参照。ただし2213〜は最初から普通のCタイプを確認)。1963年に撮影された写真を見ると、2209−2210はBタイプ、2215はCタイプなので、1961年から1962年頃、原形ドアはBタイプに交換されたものと推定されます。なお、原形タイプをHゴム化したものがCタイプに見えますが、実際には窓寸法が微妙に異なるので、原形タイプはなんらかの理由で廃棄されたものと推定されます。また2213号からのCタイプが、いつ頃Bタイプに交換されたのかは、今のところわかりません。
●デハ2217−2218のドアは、1960年までは両車ともCタイプであることが確認されています。しかし1970年撮影の写真では、2217号がBタイプに交換されていますので、この間のいずれかの時期に、なぜか2217号のみドアが交換されたことになります。
●デハ2220形は、当初全てのドアにCタイプを採用していました。しかし、後にかなりな数Bタイプ、およびAタイプも混じり込んでおり、同一編成内でBタイプとCタイプが混在しているケース(2221−2222、2223−2224)もあることが謎です。運転台の取付に関係がありそうですが、例えば2221は、1965年頃の写真では、確かにCタイプで(「海洋紀行」→「鉄道資料館」→「昔々の鉄道風景」→「小田急電鉄の昔」をご参照下さい)、1966年の写真ではBタイプになっていますので、1965年中に交換が行われたと推定されます。これらの時期として、HB車や1600系が、4000系に更新のため廃止となっていた時期と重っていれば、何かの理由でHBのドア→2220形→元のドア淘汰、という流れが想定しうるのですが、交換時期が1961年頃から1965年頃と推定されるので、微妙にずれがあり(4000系の登場は1966年から)、HB車系のドアが2220形などに利用された可能性はなさそうです。
●デハ2235号のドアは、1969年の写真では、全てCタイプです。したがって海側新宿方1枚目ドアのAタイプへの交換は、そのあとということになります。
●4輌編成を2輌編成にするため、運転台を取り付けた車輌は次の通り。
2220形→2222、2223、2226、2227、2230、2231、2234、2235。
2300形→2301(旧2302)、2303。
2320形→2322、2323、2326、2327。
 これら運転台取り付け車は、正面の窓寸法がわずかに上下に拡大され、2400系と同じ寸法になっています。しかし、仕様の統一のためか、列車無線の取り付けが行われず、これら運転台取り付け車で、先頭に出て営業可能な車輌は、列車無線使用開始とともにほとんど無くなりました(上述のように多摩線では列車無線無しの車輌が先頭に出て走行したことがあります)。1978年頃には、一部の車輌はマスコンが撤去されており、当該編成の先頭運転台には、「中間運転台マスコン取り外し車」という表示がされていました(のちに復活)。
 そもそも2220形などの2輌編成化は、2400系と組んで6輌編成を組成するためでしたが、のちに2200系のみで編成を組み、6輌編成で活躍しました。しかし特に晩年になると、再び2200系+2400系の6輌が組まれたこともあり、逆に2400系の運用を2200系×4輌で代走する場合や、多摩線の4輌編成化にからみ、時に全ての車輌に運転台がある2200系の10輌編成などという、とんでもない編成も発生しました。
 2200形は、多摩線で2輌編成での運用に充当するため、全車に列車無線が装備され(2217−2218号も含む)、そのため切り離して使うことを考えてか、6輌編成の中間に封じ込められていることが多かったです。しかし、デハ2211から2214の4輌と、時には2215から2218の4輌は、編成予備車とされていることが多かったため、まれではありますが、HE車の運用に入り先頭に出て走ったこともありました。
 晩年の2200系+2400系の6輌組成では、2400系寄りに来る車輌に、列車無線無しの車輌が組まれていました。結局、運転台取り付け車の運転台は、有効に活用された期間は思ったより短く、長く使われたのは、新潟交通(現在廃線)に譲渡されたデハ2229−2230の2230号車のものや、富士急行に譲渡された車輌群のものでしょう。
●多少余談になりますが、「あまみや」という模型店の、HOゲージ鉄道模型で、2220形のキットを組むとすれば、入っているドアの形態から、そのままストレートに組むと、デハ2225−2226の編成しか作れません(笑)。
●車輌としては、個人所有のものと、小田急での保存車2201(2202も保存されていたが、留置場所の関係で2018年解体)を除き、既に現存しませんが、台車のみはわずかに現存しています。富士急行に譲渡された2211−2212は、当初直角カルダン駆動のFS−203台車のままでしたが、直角カルダンに特有なかさ歯車の保守が困難だったのか、のちに他の廃車から転用のFS−316(WN式平行カルダン駆動)に交換されています。これは同じように富士急入りした2301−2302、2303−2304も同様です。これらのいずれかのFS−316台車が、銚子電鉄デハ1000形に装備(その後廃車)されており、また伊予鉄道の700系にもFS−316装備車がありました。


※参考文献:深谷則雄・宮崎繁幹・八木邦英編、「小田急電車回顧」第3巻、2006.多摩湖鉄道出版部、ネコ・パブリッシング、東京。

旧塗装時代デハ2225の画像です

 この画像は、撮影者不明のすぎたま所蔵写真ですが、珍しい編成で走る2220形+2200形です。経堂駅にて。まだ地上時代の経堂駅も、ホームがかなり短く、地下道を掘るための工事をしている最中と思われます。右側の建屋は経堂工場で、一番左にはキハ5000形と思われる車輌が見えますが、前面窓を縮小していません。建屋の中には、2200形と思われる車輌の後ろ側が見えます。
 この画像の車輌はデハ2225号ですが、ドアは上の分類による「A」タイプのようです。後年Bタイプになりますが、この時代は4輌編成でしたので、2輌目のデハ2226にはトイレがあります。前面の手すりはクロームメッキされていて銀色に輝いています。パンタはホーンが1本にまとめられ、枠の補強が「く」の字型に入っているもので、後年のものとは異なります。

デハ2220形とデハ2200形の連結部画像

 この編成の後ろ側をそのまま撮影した画像ですが、重要な部分が多数含まれるので、あえて大きめ画像でご紹介します。
 まず、驚いたことに、運転台の無いデハ2226号のトイレ部分と、運転台があるデハ2207号が連結して走っています。つまり国鉄のように書くと、新宿方からこの編成はMc−M’+Mc−M’cということになります。小田急ではこのように編成をすることは比較的珍しいのですが、1960年代頃には特に2200系列で例があり、2320形+2300形4連の例も発見されています。つまりこの時期は、4輌編成でも2輌ずつ切り離して使用することを想定していたということになりますね。
 さらに画像を見ると、右側のデハ2226にはトイレがありますが、その流し管がかなり外寄りに「流す」ようになっていることと、トイレ部分の窓配置が独特なことがわかります。またよく見ると、2225と2226でドアの窓形状が異なり、2225は上の分類でAタイプ、2226はCタイプになっています。
 また右側の2220形はアルミサッシですが、左側のデハ2207はチーク製の木製サッシで、ドアも新製時の軽合金製を保っています。乗務員室ドアの窓も、木製サッシになっています。竣工図には2212までが「半鋼製」、2213からが「全金属製」とあるようです。
 しかし、なんと言っても一番この写真に価値があるのは、デハ2207の台車が、試験台車のMD101であることです。背の高い枕バネを2連で並べ、その中央にオイルダンパを置き、軸受け部はウイングバネ式に見える形状(さらに軸箱両側のバネを結ぶように板バネを装備)です。これは三菱重工が試作した、平行カルダン駆動の試験台車で、本車2207と2211(その他2201、2206にも時期により装着)に装着されて断続的に?試験されたようですが、量産されることは無く、その後のゆくえもわからないこととなったようです(メーカー返却?)。
 2200形のパンタグラフは、枠の横方向にメンバが入っているタイプで、2220形のものと異なります。ホーンも2本独立したもので、PT42形に属するものと思われますが、後年のものと比較すると、シューが薄いように思います。

デハ2208号の画像です

 走り去る列車の後追い写真です。急行なので、この時代経堂駅は通過ですが、「急」の筆文字マークがいい味出してます。この画像でも、サッシは木製、ドアはガラスの角張ったものであるのがわかります。ドアガラスに白い四角い紙が貼られていますが、なんと書かれていたのでしょうか。この時代の2200形は、前面貫通化工事の計画があったこともあり、行先表示器を付けていません。その前面窓は黒Hゴム止めになっています。
 左に見える頑丈そうな建物は、変電所と思われますが、後年豪徳寺駅寄りに移転し、この建物は取り壊されました。出発信号機の位置も、ホームの延伸に伴い、もっと右寄りに移されています。そうして最終的に経堂駅は、高架駅になって、急行も停車するようになるわけです。
 3枚とも1960年頃?。撮影者不明。すぎたま所蔵写真。


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