これらの系列は、駆動方式の差はあれども、全て同一性能と呼べるものでしたから、一括して「FM系」などと呼ばれていました。そしてこれらの系列は、その改造の経緯からか、ドアの形にいくつかのタイプと、車輌によってまちまちな取り付けパターンがあり、同一車輌に2種のドアが使われているなど、特に晩年は混乱しておりました。そこで、これらの車輌を1輌1輌調査した資料がありますので、ここに公開します。調査時点はおおむね1980年頃です。雑誌などで写真がわかるものは、それとの比較も必要に応じて行いました。
まずドアの形状は以下の3種です。模式図では省略しておりますが、全て窓ガラスはHゴム止めです。また左側を戸当たりゴムとして、車体の外側を描いたものです。
これは「Aタイプ」と呼びます。やや小さめな窓が特徴で、比較的後年に取り付けられたものは、基本的に全てこのタイプです。窓ガラスはHゴムで止められ、窓の上の辺は、客室窓の上辺より少し上に出ており、窓の下の辺は、客室窓サッシの下のライン(手で持って上げる部分の、サッシとガラスの境目)より、少し上になります。
これは「Bタイプ」。いわゆるプレスドアと呼ばれるもので、窓の下に、角の丸い長方形のへこみがあるものです。このへこみの理由はわかりませんが、戦後しばらくから、1960年代半ば位までに取り付けられた車輌が多いので、補強を兼ねて着物(和服)のたもとやすそをドアが開く際に巻き込まないようにするためでしょうか?。小田急では主としてデハ2200形が、その後の交換でデハ2220形にも使われています。窓の上辺は、「Aタイプ」とほぼ同じ位置、窓の下辺は、客室窓サッシの下辺と一致しています。
これは「Cタイプ」。大きめな窓が特徴です。プレスによるへこみはなく、窓の上辺は「Aタイプ」などよりさらに上の方、窓の下辺はおおよそ「Bタイプ」と同じ位置です。もともとはデハ2200の後期車と、デハ2220形が装備していたものですが、その後交換されたのか、数は少なくなっていました。
車輌番号 |
山側 |
海側 |
車輌番号 |
山側 |
海側 |
2201※1 | B | B | 2202 | B | B |
2203 | B | B | 2204 | B | B |
2205 | B | B | 2206※1 | B | B |
2207※1 | B | B | 2208 | B | B |
2209 | B | B | 2210 | B | B |
2211※1 | B | B | 2212 | B | B |
2213 | B | B | 2214 | B | B |
2215 | B | B | 2216 | B | B |
2217※5 | B | B | 2218※5 | C | C |
2221 | B | B | 2222 | C | C |
2223 | B | B | 2224 | C | C |
2225 | B | B | 2226 | B | B |
2227 | C※2 | C※2 | 2228 | C | C |
2229 | A | A | 2230 | A | A |
2231 | C | C | 2232 | C | C |
2233 | A | A | 2234 | A | A |
2235 | C | C※3 | 2236 | C | C |
2301※4 | A | A | 2302※4 | A | A |
2303 | A | A | 2304 | A | A |
2321 | A | A | 2322 | A | A |
2323 | A | A | 2324 | A | A |
2325 | A | A | 2326 | A | A |
2327 | A | A | 2328 | A | A |
●表は全て左側が新宿方(上り向き)。
※印は特異車。
※1のデハ2207とデハ2211、デハ2201とデハ2206は、一時三菱MD101台車を試用。平行カルダン駆動方式の試験をした(下画像参照)。
※2のデハ2227号は、海側、山側ともに新宿方1枚目のドアのみ、Aタイプになっていて、1輌にAとCが混在。おそらく何らかの事故に遭遇し、復旧時にドアを交換したものと考えられる。
※3のデハ2235号も同様で、海側の新宿方1枚目のみ、Aタイプになっていた。これも1輌にAとCが混在。踏切事故にでも遭遇・交換したか。
※4のデハ2301と2302は、ロマンスカー時代編成が、Mc−M’−M’−Mcとなっていたのを、2輌編成3ドアに改造するとき、新宿寄り2輌を方向転換。車号を交換し、M車に運転台を取り付け、他の編成に合わせてMc−M’cとしたため、床下の機器類も他の編成と海側山側反対になってしまっていた。例えばコンプレッサーは、この2200系列では基本山側に位置しているが、デハ2301のみは海側に付いている。
※5のデハ2217−2218の編成は、1959年に増備された車輌で、既にWN駆動方式が一般化していた時代の車輌であったため、デハ2220形に合わせて作られた。そのため前面は貫通形で、それまでのデハ2216までとは様々な点で仕様が異なっていた。特に台車は、小田急初の空気バネ台車FS−321を装着しており、これは廃車まで使われたのち、伊予鉄道に譲渡。同社の700系(元京王帝都電鉄5100系)に装着されて使用された。しかし大きなボルスターアンカーが災いし、車輪転削盤にかからないという理由により、他の台車に交換され淘汰された。
この画像は、撮影者不明のすぎたま所蔵写真ですが、珍しい編成で走る2220形+2200形です。経堂駅にて。まだ地上時代の経堂駅も、ホームがかなり短く、地下道を掘るための工事をしている最中と思われます。右側の建屋は経堂工場で、一番左にはキハ5000形と思われる車輌が見えますが、前面窓を縮小していません。建屋の中には、2200形と思われる車輌の後ろ側が見えます。
この画像の車輌はデハ2225号ですが、ドアは上の分類による「A」タイプのようです。後年Bタイプになりますが、この時代は4輌編成でしたので、2輌目のデハ2226にはトイレがあります。前面の手すりはクロームメッキされていて銀色に輝いています。パンタはホーンが1本にまとめられ、枠の補強が「く」の字型に入っているもので、後年のものとは異なります。
この編成の後ろ側をそのまま撮影した画像ですが、重要な部分が多数含まれるので、あえて大きめ画像でご紹介します。
まず、驚いたことに、運転台の無いデハ2226号のトイレ部分と、運転台があるデハ2207号が連結して走っています。つまり国鉄のように書くと、新宿方からこの編成はMc−M’+Mc−M’cということになります。小田急ではこのように編成をすることは比較的珍しいのですが、1960年代頃には特に2200系列で例があり、2320形+2300形4連の例も発見されています。つまりこの時期は、4輌編成でも2輌ずつ切り離して使用することを想定していたということになりますね。
さらに画像を見ると、右側のデハ2226にはトイレがありますが、その流し管がかなり外寄りに「流す」ようになっていることと、トイレ部分の窓配置が独特なことがわかります。またよく見ると、2225と2226でドアの窓形状が異なり、2225は上の分類でAタイプ、2226はCタイプになっています。
また右側の2220形はアルミサッシですが、左側のデハ2207はチーク製の木製サッシで、ドアも新製時の軽合金製を保っています。乗務員室ドアの窓も、木製サッシになっています。竣工図には2212までが「半鋼製」、2213からが「全金属製」とあるようです。
しかし、なんと言っても一番この写真に価値があるのは、デハ2207の台車が、試験台車のMD101であることです。背の高い枕バネを2連で並べ、その中央にオイルダンパを置き、軸受け部はウイングバネ式に見える形状(さらに軸箱両側のバネを結ぶように板バネを装備)です。これは三菱重工が試作した、平行カルダン駆動の試験台車で、本車2207と2211(その他2201、2206にも時期により装着)に装着されて断続的に?試験されたようですが、量産されることは無く、その後のゆくえもわからないこととなったようです(メーカー返却?)。
2200形のパンタグラフは、枠の横方向にメンバが入っているタイプで、2220形のものと異なります。ホーンも2本独立したもので、PT42形に属するものと思われますが、後年のものと比較すると、シューが薄いように思います。
走り去る列車の後追い写真です。急行なので、この時代経堂駅は通過ですが、「急」の筆文字マークがいい味出してます。この画像でも、サッシは木製、ドアはガラスの角張ったものであるのがわかります。ドアガラスに白い四角い紙が貼られていますが、なんと書かれていたのでしょうか。この時代の2200形は、前面貫通化工事の計画があったこともあり、行先表示器を付けていません。その前面窓は黒Hゴム止めになっています。
左に見える頑丈そうな建物は、変電所と思われますが、後年豪徳寺駅寄りに移転し、この建物は取り壊されました。出発信号機の位置も、ホームの延伸に伴い、もっと右寄りに移されています。そうして最終的に経堂駅は、高架駅になって、急行も停車するようになるわけです。
3枚とも1960年頃?。撮影者不明。すぎたま所蔵写真。