冷房化と車体修理(更新)まで

 小田急2600系は、冷房化(自動表示幕取り付けも含む)を経て、ますます各停や準急にそのパワーを発揮し続けました。またこの時代の後半は、他形式との併結運転を開始し、2600系にとって大きな転機となった時代でもあります。併結運転は、古くは2200系と、さらには5000系と試験を行い、可能性を探っていたようですが、「車輌特性が異なる」という理由で、見送られてきた経緯があります。しかし、最終的に2400系との併結試運転を経て、実行に移されました。背景には、6輌編成でありながら、4輌編成との連結で10輌編成を作れないので、ダイヤ上不都合だという理由があったようです。実際にどのような調整や改造をしたのかは不明ですが、微妙な加速率の設定変更などでしょうか?。

夕方の出庫に備える2600系の画像です

 夕方のラッシュに備えるため、経堂駅の側線で待機する2600系冷房改造車、2668編成。この留置線は、現在駅の高架下になってしまっていますが、経堂工場の名残として、夕刻から夜間の車輌留置に使用されていました。ここから直接本線に出られるようになっており、夕方新宿に回送して、折り返し各停や準急になる運用があったようです。出庫時は、この構内踏切が閉じられ、コンコースから上がってきた人々は、足止めを食うのでしたが(笑)。それにしても、手を伸ばせば届きそうなところに、無人の電車を止めておくなど、現在では考えられない構造ですね。スカートは連結器下が逆凸形になっている比較的初期の形態です。1978年5月20日撮影。今だから書きますが、連結器上の渡り板を勝手に上げたのは、私です…。

初期冷房改造車車内の画像です

 初期に冷房改造された車輌の天井は、5000系の初期量産冷房車と同じく、軸流送風機(「ラインデリア」)を使用せず、扇風機を四角いギャラリ付きの箱に収めた形態でした。この車は、そんな車輌の車内です。午後の上り電車の風景。車内広告がなんとなくおとなしいのと、保線関係の人も、すいているときは着席していました。成城学園前駅。1979年頃。

2600系運転室の風景画像です

 運転士さんも、軽くハンドルを握って…と言いたいところですが、この時代、2600系の運転室には、冷風の吹き出し口がないという、とんでもない「差別」車輌がありました(のちに改善)。冷房化時に、内装材の角部分に、アルミの縁取りが追加され、ワイパーも拭き腕が2本のタイプに変更されているようです。運転台パネルの形態は、数種あり、戸閉灯まわりにいくらか違いがありました。

準急江ノ島行きの画像です

 長く設定されていた「江ノ島」行き準急。この時代は、千代田線乗り入れ直通準急と、朝夕のラッシュ時以外の準急は、経堂停車のため6輌編成で、それでも輸送力的には十分でした。また片瀬江ノ島行きの準急が設定されており、日常的に2600系を見ることができたものです。経塚山トンネルに入ろうとする2600系下り準急。1980年頃、玉川学園校内より。


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