小田急2600系非冷房時代

 小田急電鉄が2600系の製作を開始した1964年には、まだ純然たる通勤電車への冷房搭載など、考えられもしない時代でした。また最近のように、酷暑というような年が続いたりということも、なかったように記憶しています。
 しかし、1970年代に近づくと、それまで大規模な店舗などに限られていたクーラー(当時はエアコンとは言わず、冷房専用のものでした)が、車や旅館一般家庭にも浸透し始め、通勤電車もそれとともに冷房化の要望が強くなってきました。そこで小田急では、2400系のクハ2478号車を試作冷房改造車として、1968年から試験を始め、1971年に新製された5000系第9編成以降は、量産冷房車として登場させることになりました。一方で、在来車の冷房化改造も検討され、2600系はその対象となったのです。
 冷房化改造はさっそく1973年から、5000系と同じような仕様で開始され、のちに改良を加えながら、また一時中断をはさみながらも、最終的に2652編成の冷房化で、全車輌の冷房化を達成しました。そんな2600系の、非冷房時代の画像を少しお目にかけます。さすがに古い時代なので、非冷房の写真はあまり残っていませんでした。

豪徳寺駅に進入する小田急2600系の画像

 夕方近く、豪徳寺駅に進入してくる、下り各駅停車のクハ2853号ほか6連。特段冷房改造後と大きな違いはありませんが、ベンチレータの多さが目につきますね。またスカートは、のちの冷房化後のスタイルに、既になっています。1979年頃?。

向ヶ丘遊園駅に停車する小田急2600系の画像

 向ヶ丘遊園で発車待ちの、クハ2855ほか6連。2600系につけられたスカートは、5000系に付いているものと似ていて、連結器下の欠き取りが、2段になっているのが本来です。全車冷房化と前後して、上の画像の形態のものに取り替え(改造?)されました。またこの時代は、他形式との連結運転をしていなかったため、ジャンパー栓受けもありません(本来はスカート右側にあり、スカート取り付け前まではあったが、スカート取り付け時に撤去)。1978年。

2600系のサイドビュー画像です

 津久井道から、併走する2600系を撮影。晩秋の列車、というところですが。新百合ヶ丘−柿生間。側面のベンチレータ配列がわかるかと思います。非冷房時代は、クハの一番前のベンチレータは、側面が開いており、押し込み式の外観ながら吸い出し式でした。またベンチレータ配列そのものは、のちの旧4000系と基本的に同じですが、運転室直後の側面戸袋窓も、よろい戸をはめてベンチレータになっていました。1978年秋。


新鋭の5200系や4000系と並ぶ2600系の画像

 経堂検車区の引き込み線は、敷地外からこんな写真を撮ることが出来ました。現在もある「山下公園」という公園の道沿いにある、一段高くなったフェンス台に上がれば、その時々の車輌が撮影できたものです。中央、珍しく貫通ドアを開けている2600系非冷房車。2659他。右はデハ4014他、左はクハ5253他です。種別表示は4000系(右)ともども手動ですが、サイズが上下で小さいのがわかります。後に冷房化の際、自動化とともに拡大されました。1978年頃。


小田急2600系非冷房時代の画像です

 フィルムから拾った画像です。ススキをなびかせながら、準急として新宿へ向かう2600系非冷房車。種別表示器の文字は、試運転・急行・快速準急・準急・各停・無地があったようですが、各停は黒(不使用)、それ以外は全て赤色でした。またパンタグラフが、この時代横方向にメンバのないものになっており、その後と異なります。シューも薄い形のようです。形式はPT42Kだと思うのですが。2660他6連。鶴川−柿生間にて。1979年頃。このあと、2660編成、2659編成、2651編成が相次いで冷房化され、次いで、2658編成から番号を戻るように冷房化が進みました。


非冷房2600系の画像です

 夕闇迫る経堂駅に回送で到着した、非冷房時代のクハ2656他。回送も通過表示灯(おでこの両端)を点灯しています。行先表示は海老名と向ヶ丘遊園の中間を表示し、回送であることを示しています。本来なら白幕の部分まで回すべきでしょうが、方向幕がこの時代は手動式だったので、手間を省くため、よくこのように表示と表示の間に回していました。非冷房時代は、密連下に電気連結器がありません。この時代2600系は、他形式と連結運転を行っていなかったためですが、3連ジャンパー連結器は取り付けていたので、向かって左側の足かけ位置が高い位置になっています。1979年1月、経堂駅3番線にて。


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