ところが、悪いことは起こるもので、1987年1月上旬箱根登山鉄道小田原−箱根板橋間の急カーブで、LSE7000系が脱線してしまい、しばらく修理を要する状況となりました。通常、こういう場合は予備車があるものなので、支障は無いはずだったのですが、たまたま検査入場していた編成が別に1編成あり、さらにNSE車1編成が日本車輌に車体修理で入場していた時だったため、特急車は、合計3編成が使用できないことになってしまいました。
検討の結果、一部の特急列車を、2週間ほど一般車輌(通勤形)で代走することにし、ここに戦前〜戦後の一時期を除くと、小田急ロマンスカーの歴史上あり得ないはずの、一般車代走「特急」が走ることになりました。
駅に掲示が出ており、当時の「さがみ」と「えのしま」の一部が代走になったようです。私の記憶によれば「第54さがみ」は代走と駅に掲示がありました。当時の時刻表から、主として季節臨時運転の「さがみ」を中心に代走としたようで、下の方で詳しく検証します。
車輌は当時最新鋭だった8000系の、比較的新しい車輌が充当され、前面・側面の表示幕には「特急」が無いため、正面は種別を「臨時」、行先には所定の行先を表示、側面は種別を無表示、行先部分は「臨時」を表示して運転されました。
2010年1月、ロマンスカーLSE車7000系1編成を廃車のため分解したところ、台車の連接部に亀裂が見つかりました。それで、念のため他編成とHiSE車10000系の同部位を検査したところ、同様な亀裂が発見されたため、しばらく運用停止し、代車による運転に切り換えると発表されました。幸い、現在は多数の特急車輌があり、編成減車で乗り切れましたので、通勤車輌による代走は発生しないですみましたが、1987年当時はそういうわけにも行かず、わずかな間とはいうものの、一般車代走とならざるを得なかったわけです。
たまたま通学時に、駅に張られた掲示を見て、記録しておこうと撮影した画像が見つかりましたので、あまり発表されていないようですから、ここに掲載することにします。
※youtubeとかに勝手に転載しないで下さいね。出典:某(なにがし)と書けばいいわけではありません。無許諾での動画投稿サイトへの転載は著作権の商用利用ですので、使用料が発生します。
下北沢を通過して、小田原を目指す「第57さがみ」代走の8000系8263編成による「特急」。停車駅は新宿−向ヶ丘遊園−本厚木−新松田−小田原。下北沢−世田谷代田間で撮影。
同列車の後追い。表示は「臨時」・「小田原」になっています。乗客は1輌当たり2〜5人程度でした。乗車できたのは、本来の特急券を持っていた人のみという説と、誰でも乗れたという説があります。これについては、「特急料金は払い戻す」と駅の掲示にあったので、当日案内をしたのでしょうが、特急券は払い戻しとともに回収されたはずで、誰が券を持っていたか判別が困難になると考えられ、ホーム上で払い戻しをしたのでなければ、特急券を持っていた人のみ乗せたという説は、やや不自然ではないかと思えます。乗車整理券のようなものでも配ったのなら別かもしれませんが、そのような話は当時聞いたことはありません。
しかし一方、1輌数人の乗車(写真撮影時に見た限り)は、誰でも乗せたとすれば少ないように思えるのも事実です。ただ、新しい種別として定常的に運転されたわけではないので、新宿から向ヶ丘遊園まで、昼間(画像の列車は午後3時近く)に無停車で走る列車が、それほど便利か?という疑問も残りますね。当時のダイヤでは、先行の急行を追い抜かない列車も多かったので、一般車輌で、トイレも無く、ロマンスカーの当時の「売り」の一つである「シートサービス」も無い、停車駅が途中3駅のみという列車を、便利とは思えなかった人が意外に多かったのかもしれません。
それで、実際当時のダイヤで、どの列車が8000系による代走運転になったのかについて、当時の時刻表を入手して検証してみました。「鉄道ピクトリアル誌478号」と、それを引用しているwikipediaの記述は、どうも間違っているように思われます(期間は2日間ではなく、もっと長い。使用編成もここの画像にあるように異なる等。この「鉄道ピクトリアル誌478号」の記述疑問点については、この下でもう少し詳しく検証します)。
歴史の長い小田急系掲示板に、当時駅でアルバイトをしていた人の書き込みがあり、それを要約すると、
1.新宿16時40分発の「第13さがみ」が代走だった。
2.向ヶ丘遊園12時30分発の「第61さがみ」が代走だった(元の掲示板には「63さがみ」とあるが、「61さがみ」の間違い)。
3.7000系の復帰が遅れたのは、(脱線の)原因究明に時間がかかったため。
4.「運休」という案内はしないこととした。
5.6輌目のみドア扱いをした(おそらく新宿方先頭という意味)。
…とのことでした。
これらの情報から、1986年10月1日改訂の時刻表から列車を拾うと、以下の列車が該当します。
A:新宿8時10分発「第5さがみ」→小田原10時40分発「第6さがみ」→新宿12時10分発「第61さがみ」→小田原14時40分発「第62さがみ」→新宿16時40分発「第13さがみ」→小田原18時10分発「第14さがみ」
上に掲げた画像の列車は、冬の夕方ということを考えると、「第13さがみ」とは思えません。したがって代走は少なくとももう1本あったはずです。先の私の記憶「第54さがみ」が代走と駅に掲示されていたことから時刻表で追いますと、以下の列車が代走に該当します。
B:新宿11時10分発「第53さがみ」→小田原13時10分発「第54さがみ」→新宿14時40分発「第57さがみ」→小田原16時10分発「第56さがみ」
したがって、この中の「第57さがみ」が上に掲げた画像の列車だったことがわかります。
その他代走に該当しそうなのは、以下の「えのしま」かもしれません。
C:新宿発12時40分「第7えのしま」→片瀬江ノ島14時20分発「第6えのしま」
ただし、大半の列車は季節運転スジなので、毎日運転では無く、さらに足柄駅や経堂駅へ引き上げた際に車輌交換があったことも考えられるため、詳細は当時のダイヤグラムそのものを見ないとはっきりせず、さすがに毎日3本の編成が代走したり、また1運用の全ての行路を代走していたわけではない(途中で車輌交換など)のかもしれません。どなたか情報をお持ちの方、当時の駅掲示を撮影された方はぜひご一報下さい。
※なお残る疑問点について
「鉄道ピクトリアル誌478号」には、「8000系によるロマンスカー代走」について、貴重な記録がなされています。これはwikipediaに当該号から引用がなされているため気付いたことですが、そもそもどのように書かれているのか「鉄道ピクトリアル誌478号」を取り寄せて見てみました。
引用ここから−−−−−−−−−−
小田急の特急代替列車 小田急電鉄では7000系と3100系各1本が入場中のところに 3000系1本が踏切障害で使用不能となった1月24・25の両日 「第53さがみ」以降のスジを24日は8252F 25日は8265Fで代替運行した 種別は「臨時」で特急料金不要だった 写真は「第57さがみ」の代替列車
引用ここまで(原文ママ)−−−−−−−−−−
これが掲載されているのはpp107 TOPIC PHOTOS 関東欄です。写真のキャプションは、撮影日:'87-1-25、撮影場所:新百合ヶ丘駅、撮影・記事執筆者:本多聡志氏ということになっています。
ここで疑問なのは、
1.本多氏の記事では、上記Bのスジに載る列車のみ代走になったように書かれている点
2.期間が2日のみと短い点
3.使用編成が私の撮影した写真と異なる点
4.代走の直接原因となったのが、3000系SSE車の踏切障害になっている点
5.特急料金不要だったと言い切っている点
…の諸点です。特に私の記憶と違うのは1〜4で、さらに5のように特急料金不要ということであれば、希望者を全員乗せたということになり、特急券を持っている人との区別をどうしたのか、つまり払い戻しはどういう処理で払い戻したのかが明確で無いことも、理由がよくわかりません。
この本多氏という方が、別に信用できない記事を書くというわけでは無く、1986年12月19日に発生した土砂崩れでの不通に伴う、地下鉄乗り入れ直通準急を新百合ヶ丘で種別変更し、急行多摩センター行きで10輌編成のまま多摩線へスイッチバック運転したというような「イレギュラー運行」について、同じページで紹介したりしていますので、記述が極めて具体的であることから、本記事が憶測などを交えて書かれたとも思えないのです。ただ、「鉄道ピクトリアル」の「TOPIC
PHOTOS欄」は、多少の勘違いや誤字・誤記が含まれていることもあり、一般記事よりは若干確実性が落ちるのは事実ではありますが。
そうすると、「8000系によるロマンスカー代走」は、2期間あったのではないかという疑問も新たに発生します。つまり脱線事故は1月上旬にあったと記憶しているので、事故後即2週間程度と、大野工場検査入場車が出場した直後今度は3000系SSEが踏切事故に遭遇して、再び1月24日と25日にも代走が発生したのではないかという疑問です。
もし2つの期間で発生していたのだとすれば、2期間目(1月24日と25日)の使用編成が固定されていて1運用分のみであり、私の目撃撮影した写真と使用編成が異なっていることの説明も容易につくことになります。
この件については、まず7000系LSE車の、箱根板橋における脱線が、正確にいつ発生したのかを調べることが、ひとつの鍵になろうかと思うので、神奈川新聞か朝日新聞(当時この事故について掲載が社会面にあったと記憶)の当時の記事を調べることから、とりあえずは始めようと考えています。続報をお待ち下さいませ。
ロマンスカーの原形は、小田急電鉄の前身、「小田原急行鉄道」が、戦前の一時期「週末温泉急行」(「週末温泉列車」とも)として、新宿−小田原間無停車で運転したものと言えます。この時は、専用車輌は無く、当時の一般車であるセミクロスシートの車輌などが使われたと記録にあります。
一方戦後は、ロングシートのデハ1600形とクハ1650形、クハ1315号(本来HB車のクハだが、マスコンと回路を1600系用に改造して充当)を使用して、「週末温泉特急」として復活。1910系ロマンスカーが1949年秋にデビューするまでは、ロングシート車を特急にあたる列車に定期充当した唯一の事例でした(1910系と1900系で登場にわずかなズレがあった関係で、ロングシートの1900系2連を、1ヶ月ほど「週末温泉特急」に代走させた写真が残されています)。
それだけに、この8000系通勤車による「特急」は、極めて異例の事態であったと言えるでしょう。
他の私鉄や国鉄で、完全な通勤形ロングシート車を「有料列車の代走」に使用した例は、国鉄千葉鉄道管理局が、夏期臨時準急「白浜」に使用していたモハ80形がブレーキ不緩解で故障したため、急遽モハ72形を組み込んで、準急として走らせた例(1964年8月12日〜14日。「とれいん」第309号82・83ページの記述による。しかも準急料金を取ったもよう)位ではないでしょうか。
※ここに掲げた画像について、「鉄道用地内に立ち入って撮影している」等と、難癖つけている人がいるらしいですが、念のため当時の現場の図を掲げておきます。見取り図なので、完全に現地を再現できているわけではありませんが、全体の構成はこれで合っています。
1枚目の画像は、図の「1」の位置、2枚目は「2」の位置(いずれも歩道)から撮影したものです。ここは当時小田急の資材置場になっており、古レールで柵が設けられていました(地下化後の現在は公園になっていて、古レール柵は撤去されています)。その柵の上からカメラを入れての撮影です。一部の想像力が欠如した方のために、いちいちこんなことを書かなければならないのは、非常に嘆かわしいことです。
●1958年5月5日
箱根湯本発12時57分上り特急「さがみ」(注:当時は時刻により列車名は決まっていた)を、1900系4連にて代走との記述があります(138ページ)。1900系は1949年に登場した戦後初の自社設計によるロングシートの新車で、1949年の登場時も1ヶ月ほど「週末温泉特急」に使用されたことがあります(上記参照)。当初は両端電動車に戦災を受けた省電を復旧したサハを挟んだ3輌編成でしたが、その後サハをクハに改造し、一方新製のクハも連結することにより、全編成がいったん2連化されています。時期的にそのような2輌編成を2本つないで4輌編成としたものと思われます。
●2012年8月4日
「えのしま61号」の相模大野−江ノ島間を代走したとの記述がありますが(168ページ)、車種や理由、どのように代走したのかまでは記述が無く、この時の代走は謎に包まれています。時期的に見て、おそらく8000系による代走では無いと思われますが、記載されている様子からして、新宿−相模大野間はロマンスカーで運転し、その先を相模大野に在区していた一般車を代走に充てたと考えられるため、必ずしも比較的新しい車輌を充当できたかどうかはわからず、車種は全くわかりません。
この扱いを見ていると、かつての8000系によるロマンスカー代走も、同じように処理したのではないかという気もします。つまり、特急券を持っている人のみが乗車でき、下車後に特急券を払い戻すことにしたのではないか、ということです。
一方、1日だけではなく、複数の列車が代走になり、しかも2週間ほどの長さでしたので、前売り特急券を持っている人のみ乗せたとすると、おそろしく少数の人のために列車を運転することになり、それも不自然ではないかとも思えます。もし、特急券を持っている人のみ乗車可能としたのであれば、特急券の前売りか、少なくとも当日発売だけは続けたのではないかとも考えられますが(わざわざ売っておいて払い戻しなので、手間がかかり過ぎますけど)、一説によると希望者には乗車を認めた(特急券無しで乗車可)とも言われており(上記「鉄道ピクトリアル」誌記事もそれを示唆)、詳しい事情がわかりません。
この2016年の代走では、特急券を所持していないと、一般車であるのに乗車出来なかったのですから、あとで払い戻しをしたとしても、少なくとも一時的には「ロングシートの一般車に特急料金を取った状態で乗せた」希有な例ではないかと思われます。