小田急9000系・登場から地下鉄乗り入れまで

 小田急の9000系。その優雅な外観は、当時から大変な人気を呼びました。また機構的にも、界磁チョッパ制御、回生・発電複式ブレーキ(HSC−DR)などの、それまでの小田急になかった装備を持ち、当時の最新技術を取り入れていたことがわかります。

 筆者が9000系の登場を知ったのは、当時通っていた小学校のクラス見学会で、担任の教諭が、「経堂検車区見学」を企画してくれたためでした。その時に、検車区の係の人から、「今度9000形という電車が出るよ」と、教えてもらったのです。クラスでは、当然のように誰が一番早く9000系を見つけるか、乗車するかの競争になったのは、言うまでもありません。

 ある日、経堂駅に当時あった構内踏切のところを渡って、南口から北口に出ようとしたところ、なんとその9000系第1編成の、デハ9001ほか4連が、わざわざ利用客に見えるように、踏切ぎりぎりまで寄せて止めてあったのです。1972年の2月のことだったと思います。

 その高い窓ガラスを有した正面と、黒で引き締められた行先表示と種別表示器。腰におろされたライト類。掘りの深い正面全体のイメージ。どれをとっても、小学生の子どもの心を、とらえて離さない魅力が、9000系にはあったと言えます。その姿に半ば呆然として、しばらくその場を動けなかった覚えがあります。
 9000系の姿は、小田急に新時代が到来することを予感させるのに、十分であったと言えるでしょう。

 ちなみに、上の「競争」は、目撃(9001編成)・乗車(デハ9207号)いずれも私の一人勝ちであったのは、言うまでもありませんが、当時から鉄道ファンの素質があったと言うべきなんでしょうか。しかし、当時からずっと、「ロマンスカーより9000系」であったことは間違いないような気がします。


9002編成の画像です

 あまり画質がよくないのが難点ですが、私が撮影した最初の鉄道写真+9000系です。小学生であった私は、父にいっしょに来てくれるように頼み、母のカメラを借りて(pentax SV)、12枚撮りのフィルムを装填し、父と経堂駅の東側にあった、手荷物扱い所まで、9000系を撮影に行ったのでした。もちろん運用なんてわからないのに、何となく行ってみたのです。すると、9002号ほかの4輌編成がいました。そこでやや距離が遠いのにもかかわらず、シャッターを切ったのがこれです。
 今から思えば、よくも偶然9000系がいたものだと思います。経堂検車区には、9000系の配置はなく、主にロマンスカーと、近郊各停用の2600系の基地でしたから、9000系が入庫するのは、運用間合いだけだったはずです。
 この写真、今よく見ますと、パンタが下がっており、二人の検車区職員さんが、なにやら床下の様子を見ているようです。あるいは故障していたのかもしれませんね(苦笑)。それと、右側のホームは荷物電車のホームですが、その上に少年らしき人影が見えます。当時は荷物電車がいないときは、勝手に入っても、注意すらされなかったおおらかな時代だったというのがわかります。手荷物扱い所は、荷物を発送するところですから、一般の人が来ない場所ではないですが、このように線路に近づいて、平気で写真を撮れたというのも、今からすれば驚きです。1973年頃、経堂車庫線にて。


デハ9404号のサイドビュー画像です

 9000系は、4輌編成と6輌編成の2種類が作られました。これは地下鉄に乗り入れるとき、4+6で10輌を組むためです。また地下鉄線内の、勾配条件から、8M2Tの強力編成になっており、4輌編成は全て電動車なのが特徴です。
 さて、経堂検車区には、その後も通うことになり、よく9000系や、その他の形式の写真を撮りに行きました。例によって手荷物扱い所から入って、線路際まで行って撮るのです。これはデハ9404号の側面。まだ地下鉄乗り入れの、本格的な装備はなく、前面の手すりも原形ですし、車輪も写真ではわかりづらいですが、波打ち車輪になっています(後年キシリ音低減アルミ枠入り車輪への交換で、プレート車輪に交換)。また右端に写っているMG(電動発電機)の形態も、その後とは異なっています。この9404の編成は、主抵抗器送風機部分のカバーが、他の編成と異なっている異端車でした。のちに全編成ともカバーは撤去されています。1976年頃、経堂車庫線にて。


永山を表示したデハ9404号の画像です

 「永山」と、正式な駅名(小田急永山)でない表示を出したデハ9404号。多摩線は開通時からしばらく、宣伝をかねてか、9000系が運用されましたが、その後当時一番古い1900系に差し替えられ、さらには編成が2輌に減らされるという経過をたどりました。今多摩急行が10輌でがんがん走っていることなど、想像もつかない時代です。
 9000系の幕には、いろいろな伝説があり、「柿生」、「永山」、「栗平」が入っていたとか、「多摩センター」のローマ字が、「TAMA SENTAA」になっていたとか、いろいろなウワサが絶えません。このうち「永山」は上の写真で証明されましたし、多摩センターのローマ字の件は、私も実際に見て、さらにはこの表記の方向幕を実際に所有しています。
 この写真で面白いのは、当時あらゆる車輌に装備されていた3連ジャンパー連結器がなく、そのためのスカートの欠き取りもないことです。1枚上の画像と車輌は同じですが、ジャンパー連結器のあるなしが、同じ車輌で異なっています。当時はまだ10輌編成の運転は、急行ですらなく、6連の車輌は、前に他の編成を増結する可能性がないからでしょうが、その後わずかな間に取り付けられた様子です。この辺の理由は、今となっては定かではありません。1974年頃、新百合ヶ丘駅4番ホームにて。


初期の9000系車内の画像です

 9000系の特徴の一つに、前面展望がほとんど利かない運転室後部というのがあげられます。これは先頭車が電動車のため、地下鉄線内で使用するATCを搭載するための部屋を、助手席側の後ろに設け、さらに前面上部に行先や種別、運用番号窓を設けたために、収容しきれなかったスイッチなどを、運転士背面に設けたため、窓が中央の扉部分のみ、それも少し左にずれているということになってしまいました。
 登場から10年近くは、このATC機器室の後ろ側に、当時流行していた「およげ!たいやきくん」のキャラを使って、「タイヤキくんの誓い」なる、マナーポスターが掲げられていました。
 またローレル賞のプレートが、乗務員室ドアの上に光り、温度センサが扉左上に、禁煙札も今のものとは異なります。また9405編成から9408編成は、なぜかドアガラスにステッカーが、長く貼られず、国電のようだと思っていました。デハ9406号車内。玉川学園前−鶴川間、1977年頃。


日中4連で走る9000系の画像です

 日中4輌編成で走っていた各駅停車。このように一部の列車は、新宿方でも3輌(4000系)または4輌での運転が、1979年頃まではありました。運転士さんが、このようにホームと反対側に降りて、一休みなどという光景も、特段珍しいものではありませんでしたね。写真は1977年頃の9302号ほか4連ですが、珍しく渡り板が上げられており、運用番号表示窓も、なぜか幕が入っていません。この運用番号窓には、いろいろな文字が入っていたそうですが(例えばS、P、Mなど)、地下鉄乗り入れまでにEのみに交換されてしまいました。地上時代の成城学園前駅にて。


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