小田急ED1012号電気機関車の謎続き



 まずはパンタの向きと、台枠屈曲が、どの車輌でいつ頃見られるか、雑誌に発表された画像を元に表にしてみました。
 

画像撮影日付

台枠が折れ曲がっている車輌の番号

パンタの向き

画像の出所

その他

1933.春頃 −− 2号は新宿寄り 前ページ掲載の西尾克三郎氏撮影写真(すぎたま所蔵) 台枠屈曲の事故にはまだ遭遇してないと思われる
またこの時代は資料が少なく、はっきりしない
1953.5 1011号 小田原寄り 鉄道ピクトリアル通巻546号特集:小田急電鉄52p
1953.10.11 1012号 不明 すぎたま所蔵の写真 下※印参照
1959.3.28 1011号 新宿寄り 鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション1.小田急電鉄1950-60 39p
1959.4 1012号 新宿寄り 同上 48p
1959.11.15 1011号(1012号は折れてないことにより) 新宿寄り 鉄道ピクトリアル通巻679号特集:小田急電鉄 172p
1961.10.19 1011号 新宿寄り レイル’80夏号 32p
1966.1.18 1011号 新宿寄り 小田急電鉄回顧別巻134p パンタがPT-42Kなので日付は正しいと思われる。
1968年以降 1012号 新宿寄り 向ヶ丘遊園保存の1011号機画像各種(ネット上など) 同年廃車の1011号機と車体に書かれた車の台枠は折れていないのを確認。
1978.5 1012号 新宿寄り すぎたま撮影画像(前のページ参照)
1991.3 1012号 新宿寄り すぎたま撮影画像(下方)

 これらの結果、パンタグラフの向き変更(つまりは車輌の方向転換)は、戦前を除くと、少なくとも1953年から1959年初頭までの間に行われたことがわかります。理由としては今となってはっきりしませんが、検車区などでの入換の際、パンタが新宿寄りのほうが都合が良いようなことがあったのかもしれません。当然転車台で方向転換したものと推定されますが、経堂工場の廃止後しばらくまでは、経堂工場「51番線」奥に転車台があり、そこで方向転換したものと推定されます。この転車台は、意外に資料や画像が残されていませんが、「鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション1.小田急電鉄」の103ページに掲載されている「経堂駅 工場 検車区構内配線略図」には、小さく○に*印の記号で記載があるほか、「小田急電車回顧第2巻」の15ページに写真が掲載されています。

 それで、一番注目される車号の振り替えについてですが、表から読みとれるのは、もともと事故によりパンタ側台枠が屈曲したのは1011号車。それがどうやらA.1958年後半に一度1011号と1012号の車号振り替えがあり、遅くともB.1959年初頭までに元に戻され、その後再度C.1959年4月を期して1011号と1012号の車号振り替えがあり、ところがD.1959年の秋までには再度元に戻され、E.1966年1月中旬から1968年の1011号廃車までの間に再々度車号振り替えがあって、最終的に1012号のパンタ側台枠が屈曲した形で残された、という事実です。
 おそらくこれらの車号振り替えは、どれも書類上には記載が無いのではないでしょうか。つまりは当時の運輸省に無届けだったのではないかという疑念も生まれます(もっとも今となっては時効でしょうけど)。特にAとBの間、およびCとDの間も、長くとも半年程度の期間なので、何か突発的理由があったと推定されますが、よくわかりません。検査回帰などの関係があったのか、または単なる誤記なのか…。戦時中に東京急行電鉄へ合併したため、元のナンバープレート(「1」、「2」という砲金製のもの)は失われており、戦後は一貫して車号はペンキ書きだったので、変更も容易ですし、一方誤記が絶対に無いとも言えませんね(もっともペンキは塗り重ねなので、新たな塗料で隠れた文字も、下に透けて見えるはずですから、それを誤記するというのは、やや考えにくい状況ではありますが)。
 ただ、Eの車号振り替えは、もしかすると2台のうちの1台を余剰廃車とする際、調子のいい方を残しつつ、遊園地保存車の方をトップナンバーにしたかったため(なんでそんな面倒なことが必要なのかわかりませんが)かもしれません。
 結局廃車後も長く海老名に姿を留めた1012号は、元は1011号であったということです。どの改番も、必然的理由が今となっては謎に包まれているということでしょうか。

海老名検車区に保管される廃車ED1012の画像

 貨物列車廃止とともに、ED1012は廃車となりましたが、かなり長い間海老名検車区に保管されていました。保管時の画像を掲げます。この画像でも、奥側(新宿方)の台枠が折れ曲がっているのが確認出来ます。1991年3月16日。この後一度塗装のみ更新されましたが、その際車体の表記が「1012」に変更(「ED」を除去)されています。残念ながら保存されず、最終的に事故訓練に使用された後解体されてしまいました。

ED1012の画像です

 ED1012の正面。ボンネット上の丸いフタは、砂箱でしょうか。同形機に、上田温泉電軌デロ301号、武蔵野鉄道(→西武鉄道)デキカ20形があり、後に前者は名鉄デキ501号、ついで岳南鉄道ED501になりましたが、武蔵野鉄道はともかく、上田温泉電軌が当時としては比較的大きめな機関車を発注し、比較的短期で譲渡した理由には、やや経緯が不明な点もあるようです。上田温泉電軌のデロ301号については、同形機ということからか、一時小田急が借用使用していた記録が残っています。

ED1012の画像です

 アングル的に苦しいカットですが、一応側面の様子など。台車の塗装はグレーになっていて、電車と共通化されています。この時の側面を含めた車号表記は、「ED1012」になっていますが、後に一度塗り替えが行われ、単に「1012」とされたりしました。時期によって、現車表記が一定していません。こちら側(小田原方)の台枠は一応水平であるのがわかります。

ED1012とED1031の画像です

 この時はまだ現役であったED1031号と並ぶED1012。製造年はわずか3年しか違いませんが、ずいぶんデザインが違いますね。
 ED1012の屋根上が、なんとかわかる画像を、「小田急線電車のページ」→「資料」のところに掲載しています。

 ※すぎたまが所蔵し、裏面に「鐵道趣味社写真(旧字)部 撮影昭和28年10月11日 形式ED No.ED1012 小田急電鐵 宮松繁夫撮影」と書かれた写真(購入・譲受時に著作権(財産権)ごと譲受と考えられる)は、以下の通りです。

ED1012号の画像です

 この画像では、奥側の台枠部が屈曲しています。写真の撮影年月が正しいとすると、この時点で一時的に1011号と1012号がすり替わっています。右上の木の葉っぱが散った様子なので、10月中旬という撮影年月は一応違和感はありません(1950年代は、今よりずっと寒い)。ヘッドライトレンズが出っ張っていることや、パンタが横型ガイシであること、テールライトが角形ではなく、いわゆる「ガイコツ形」なことなどから、1953年撮影というのも不自然は無いかと思われます。
 鐵道趣味社というのは、戦前に宮松金次郎氏が創刊した鉄道雑誌「鐵道趣味」を発刊していた会社であると思われます。雑誌としては1937年に廃刊になっていますが、コレクションとしては存続し、「宮松コレクション」と呼ばれて著名なコレクションとされています。まとめる動きもあったようですが、結局このようにネットオークションで売られるなど散逸気味になっています。古書店筋からネットオークションで入手という入手経緯からして、著作権(財産権)ごと入手したと考えるのが妥当と思われ、ここに掲載するものです。


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