コメットさん☆に捧ぐ(連載第5回・最終回)
(前号の続き)
<「恋力」の立場>
この「コメットさん☆」という作品では、「恋する」心がもたらす、人の心と体の動きを、肯定的にとらえている。
本来、恋の“向こう側”には、肉欲的なものが含まれるはずだが、対象が子どもを主としているものであるから、当然そうしたことは描かれない。わずかに、スピカさんに子どもができる話が、さらっと描かれるのみである。
コメットさん☆はその子ども(つまりはいとこ)の、胎動を聞いたりしているが、それ以上の描写は何もない。
「恋力」という、恋する心が発揮する不思議な作用は、子どもにとっては、だれもが通るであろう思春期の入り口を、コメットさん☆自身のまどいを通してそっと見せ、大部分の大人にとっては、自らの過去を投影しうるように描かれる。これまたさらりと見せているだけなので、そのように見てしまえば、それだけであるが、結婚相手は、少なくとも「好きな人」でなければ…という、物語前期の視点から、成長にともなって恋の入り口を知るコメットさん☆が、やがて恋を内包した希望を成就すること、すなわち“かがやき”をたくさん見出すこと、で、いずれは自分の結婚相手を見つけるのだとすれば、このストーリーの流れは、実にさわやかに流れていると思う。
私はあまり詳しいわけではないが、世の「少年小説」と言われるものでも、こういう一連の流れを作って、それを無理なく、かつベタベタしないように描くことは、なかなか難しいのではないかと推察する。それほどこの「コメットさん☆」における「恋力」の描写は、巧みなものと言っていいと思う。
<「メモリーストーン」が象徴するもの>
作品中には「メモリーストーン」という、思い出や記憶を記録する石が出てくる。これを最初持っていたのは、王子であって、それを保管していたコメットさん☆の生活の記録が、王子のそれに代わってレコードされる。そしてそれが、王子自らが“かがやき”とは何か?、ということを通して、「自分自身の立脚点探しの旅」に出る決意をさせるのであったが、この石自体、人間を立ち直らせたり、新しい道への道しるべになったり、他の人を慰めたりするのに大切な、人の思い出とか、遠い彼方の記憶といったものの象徴として描かれる。
作品中に出てくるメモリーストーンの絵は、大きな緑色の石で、その作用を考えると、しかけの見えない、かなり「デジタル」っぽいものだ。私たちが使うハードディスクや、メモリーカードのような印象である。しかし、実際にはその印象とは逆に、非常にアナロギーな、思い出、記憶といったものを記録する夢の装置である。この「外見」と「内容」のギャップは、ちょっと見ていて面白い。
しかし最終的に、このメモリーストーンの持つ“機能”として、その記録に、王子が「突き動かされる」ならば、やはり王子もまた、あたりまえの「真理」に目覚めうる、普通の人間そのものであったという結論に、関連を持たせているのかもしれない。
<存在感が希薄な王子>
王女が、自分の立場を越えて、一般市民の暮らしを体験するという設定自体は、映画「ローマの休日」を始めとして、それほど珍しいものではない。しかし、コメットさん☆は、従来のその種の設定とは、完全に普通の少女にいったんはなりきるという点で、ややおもむきを異にする。それは斬新な視点ではあったが、一方で、プラネット王子の存在意義については、今一つ希薄な部分があって、わかりにくいのも事実だ。
本来この作品は、52回放送されるはずのところ、43話で打ち切りという形となっている。これほど示唆に富んだ作品が、打ち切りになるというのは、極めて残念と言わざるを得ないが、打ち切りによって、ストーリー進行上、時間が不足となった部分が、どうしてもあるようだ。それは王子の存在意義が、今一つ書き込み不足ではないかと思わせるものであったり、そもそも第1話での「王子逃亡の原因」が、王子自身の反体制志向によるものだったのかどうかが、消化し切れていない印象だからだ。
結局それらは、ストーリーの解説のところで説明したような結末を迎えるのであるが、依然、まだ子どものうちから結婚相手を決められてしまうことの是非、および、王女は政略結婚に耐えなければならないのか?、王子の星国が持つ「体制側」の真意、といった本質的なことに対し、作品中での言及はやや弱い。これは視聴者である私たちが考えればいいことではあるが、子どもを含めたファミリー向けとしては、もう少し材料が欲しい気もする。
この点は、他のテーマについて、割と明確なメッセージ性を持って、直接的に語られることが多かった作品であるだけに、少々疑問もわく。
しかし、政略結婚をさせてでも、国の安定を取ろうとする一つの思想の行き着く先を、この作品は一種そのまま、コメットさん☆や、メテオさん、王子の苦悩という形で描いている。この点は、実は見逃せない。
作品が直接的に語らなかった部分を、補足するとすれば、以下のようなことではなかったか。
最終回でコメットさん☆に、「星の子」たちは、ふたたび地球に行くことをすすめる。それはもう一度、多くの人々の“かがやき”と出会い、一方王子も自らの“かがやき”を探して、みな成長したときに、あらためてそれぞれの自らが行く道のことを考えればよい、としたからではないか。例えばそれは、もしかすると、コメットさん☆の結婚相手は、王子やケースケに限らないことだって、ありうるというスタンスである。
コメットさん☆、王子、その他あまたの人々全てが、時の流れの中で成長し、それぞれの未来への道筋をつかめば、自ずと星雲の未来も決まる。すなわちそれは、王子・王女の私的感情よりも、国体の安定を取ろうとする、古い考え方を否定した瞬間であったのではないか。
さらにそれは、王子・王女が、それぞれの未来に、“かがやき”を見出すことができれば、国も星雲も、必ず安定することを「信ずる」こと。また「古きむくろを捨て、新しい希望につなぐ」という、新たな“かがやき”を得ることそのものにつながっていく…。この流れの行き着く先を、もしかすると「星の子」たちは、知っていたのではないのだろうか?…と、私は考える。
<ふたたび「縁と絆」、“かがやき”について>
この作品は、コメットさん☆という一人の人間を通して見た、「成長物語」と言うこともできると書いた。しかし、その星力・恋力という魔法が、作品から発射され、向けられた先は、人と人を結びつける不思議な力=「縁と絆」=という点で、私たち「コメットさん☆」を“見た”者なのかもしれない。
“かがやき”という言葉が、この作品にはたくさん出てくる。第1話では、「“かがやき”は、星の力にだけあるのではなく、希望という“かがやき”は、いつでもどこにでもある」と解説されている。私は、「“かがやき”とは、人がその良心にしたがって、目標を持ち、その目標に近づこうと努力するときに、発せられる意志と希望の力」と見る。いずれにせよ“かがやき”がある限り、人は年をとっても新たな別の“かがやき”を求めることができ、どんな時にでも、前に進むことができる。このことには、地位も年齢も、性別も、所属も何も関係がない。すなわちこの“かがやき”とは、人間の未来への希望、望み、夢のことを差して言っているのだと、とらえることができるだろう。
<最後の章>
この作品は、見ることで相当考えさせられる作品であることは、もはや言うまでもない。しかし、さらっと見ることも可能であるし、そうしたからといって、とがめだてする人がいるわけでもない。全くそのあたりは自由裁量である。特に制作者の人々が、「このように見て下さい」と、提案しているわけでもない。
だが、せっかく見るのならば、この作品は、等身大のヒロインであるコメットさん☆が、星国の王女さまである前に、思春期入り口に立ったばかりの、普通のまっすぐな少女であり、その星力という魔法が、実は人間に向けられていて、もしかすると普通の人間と、極めて近いところにあるかもしれない、という点を意識して見たほうが、面白いのではないか。
特に暴力的なこともなく、色っぽいような話などみじんもない。実にさらっとしていて、安心して広くファミリーにおすすめできる作品だと確信する。
この「コメットさん☆」という作品は、決して「今すぐに何か結論を出す」ことを、どこでも求めてはいない。人はゆっくりと成長し、やがて歩み出すことを、やわらかに見せている。
芸術家岡本太郎は言ったそうだ。「創った当人しか、創造行為をしていないのか?。それは違う。観ることは創ることだ」と。これに照らせば、この「コメットさん☆」を直接創作した人も、それを見た視聴者も、私の例で言えば、私も、私のこの文章を読んでいただいている読者諸氏も、みな創作者であるということである。とすれば、「コメットさん☆」を見て、何か心に感ずることがあれば、それはその人なりの「コメットさん☆」を、創作したことになるということである。
子ども向けではあるけれども、大人が見ても、何だか素直に「人間が愛おしい」感覚になれる。
若いことはすばらしい。恋に逡巡することすら、そんな時代をはるかに通り過ぎてしまった大人でも、今はすばらしく思える。だが、大人になったことは、すばらしくないのか?。いや、希望の光は、だれでも、いつでも心に持つことができるはずだ。そういうことを、あらためて思い直せることが、本当に愛おしい。
近年日本のアニメは、海外で高い評価を受けている。しかしそれは、「コメットさん☆」のような、テレビアニメ作品ではなく、最高の技術と作画、著名な監督を起用して作られた大作である。それはそれで結構なことであるが、多くの制約の中、この「コメットさん☆」のようなテレビアニメ作品にも、「人間が愛おしく」なるような、見逃せない名作があることを、広く多くの人が、知って欲しいと思う。
私のような大人でも、心の琴線に触れる創作作品には弱い。輝く星の海から、稀少な宝石を拾い上げた。…そんな気持ちの今である。
<完>
※謝辞:この文を書くにあたり、10年来の友人「網」氏には、毎晩のように電話で話をするなど、考えをまとめる上で、重要な示唆をいただきました。ここに深く感謝の意を表します。 |