2003年8月8日号

ハードディスクと紙への記録

  ハードディスクと紙への記録
 

 ハードディスクとは、これを読んでおられる読者なら、おおかたご存じと思うが、磁性体を蒸着した円盤を内蔵し、そこで情報を読み書きする弁当箱形の装置である。今やビデオにまで内蔵されるようになって、ほぼ一般用語になりつつある。
 私のパソコンは、いまだ旧形のものを使っているので、ハードディスクの容量は小さい。ついこの間までは、1.7GBのものも現役であった。が、現在はおおむね9.1GBのSCSIタイプのものを使っている。
 このSCSI規格とて、今風ではないかもしれない。今はUSBやシリアルATAという規格も出来て、主流になりつつあるからだ。
 パソコン歴はもう8年近くになるが、最初に買ったマシンは、ハードディスクが別売りで、540MBのものを5万円くらい出して買って取り付けたものだ。今から考えれば、信じられないような話であるが、この種の劇的な価格低下や、大容量化は、パソコンの世界では当たり前である。何となく、釈然としない感じもするが。
 SCSIのハードディスクを取り付けている理由は、ATAPI(IDE)のものに比べて高いものの、多少なりとも破損に対する安全性が高そうだからである。しかし、最近は新品の適当な容量のものが無く、やむなく中古を使っているが、それならばいっそATAPIの新品をと考えるけれども、旧形マシンには、別にインターフェースカードを増設しないと、動作しないなどの問題も多く、少し困っているところである。
 それと最近の大容量のハードディスクは、平気で120GBとか80GBといった容量である。今までの経験からして、ハードディスクのデータが破壊される、ディスクの物理的破損は、ドライブ単位で起こるから、一瞬にして80GBや120GBのデータが失われる危険を、常に抱えているということである。
 そういった理由から、SCSIの9.1GBや、18.2GBのハードディスクをいくつかつないで、システムを構成しているのであるが、先日インターネット接続に重用しているマシンと、ホームページ維持用やCD−R焼き用に使っているマシンを、LANで結んでデータをやりとりしていたら、インターネット用マシンのほうの、ドライブアイコンが、ちょうどハードディスク1台分消滅しているのに気付いた。
 もしやと思って、マシンに再起動をかけても、やはり同じ現象である。「おかしいな」と初めて思いだして、外付けになっている問題のハードディスクの音を聞いてみると、動作音が明らかに異常である。ウィーンという回転音が、一定の高さではなく、上下に振れて、まるで救急車のサイレンを間延びさせたような感じになっているではないか。
 しかし、何とか一度でいいから動作してくれないと、中身のデータは全く救えない。日頃からバックアップを取っておけばいいのだが、このマシンには、バックアップ用のものは、光磁気ディスクドライブ(MO)しか付けてないので、このところはたまたま長いこと取ってない。
 なんとか再度起動を試みるが、今度は全く回転音がしなくなってしまった。これでほぼ絶望的になったが、そもそもこのドライブに何が入っていたか、ほとんど覚えていない。覚えていないくらいだから、それほど重要なものは無い…と思いたいが、とにかく全く参照することが出来ないのだから、それもどうだかわからない。
 結局システムから取り外して、外付けのケースだけで電源が入らないかテストしたが、電源コンセントに差し込んでスイッチを入れると、「キュウ」という謎の音がするだけで、ハードディスクが回転するどころか、外づけケースの電源装置もおかしくなっている様子である。
 かくして比較的信頼性のあるはずの、SCSIのハードディスクは、なんの前触れもなく“死亡”した。表面に貼られたメーカーのシールによると、“享年”5歳であったようだ。もとはどこかの中古屋で買ったものだったと記憶しているから、どこかのサーバーにでも入っていて、酷使されたのかもしれないが、まあ5年ならば持ったほうかもしれない。しかし、私のデータは返ってこない。
 SCSIカードには、故障しそうになった機器を予告する機能がある。それは当然ONにしていたが、全く役に立たなかった。
 そういえば、知人のH君が、I社の製品とF社の製品は、「ポックリ逝くよ」とか言っていた。またW社のものは「ジワジワ逝く」とも。私の今回ダメになったやつはI社の製品だ。こういうのも「ポックリ」と言うのだろうか。なんだか人間臭くも思えるではないか。
 翌日インターネット用マシンは、別の手持ちのハードディスクに交換して、もとのシステム環境に戻ったが、今後もマメにバックアップを取るしかないようだ。
 ハードディスクは、通常の状態で全くのブラックボックスである。中身を見ることはできない。「マイ・コンピュータ」等で見られるのは、直接の中身ではなくて、中に書き込まれているデータの情報でしかない。それも、モニタに表示させてみたところで、印刷物のように、実体を伴ったものではなく、電気的に表示された「情報の一部」である。直接の中身を見ようと、分解してみても、逆に蓄積されたデータは見ることができないという、不思議なものである。どだい、もしハードディスクのフタを開けたら、そのディスクは、おそらくもう使えなくなってしまう。それはチリやホコリが入ってしまい、データが正常に読み出せなくなるからである。ちょっと詳しい人なら知っているであろうが。
 その不思議な箱に、今われわれは多くのデータ、時には個人情報までも保存している。その情報を保持し続けるためには、まず電源と専用の装置が必要で、さらに別なハードディスクに同じ情報をコピーしておくか、CD−RやMOといった別なメディアにコピーしておくしか、手段がないというのも、これまた意外な感じである。
 20世紀の大半は、情報をひたすら紙に書きつける、いわゆる「紙への記録の文化」であった。しかし20世紀の終わりごろから、紙に書ききれないような膨大な資料や絵なども、電磁的に記録することで保持できるようになった。これは特別な装置がなくても読み書きできる「紙への記録」の利点すら、超えたかに思われたが、情報が多様化・大量化しすぎて、こんどはその整理・活用がおぼつかない状況も見られる。
 コンピュータ技術者の間でさえ、「紙への記録」はなくならないだろう、と言われている。私は技術者ではないが、やはり同じ考えである。そのためというわけでもないが、ワープロソフトで仕上げた作品でも、プリンタ印刷は欠かせないし、推敲や校正はほとんど紙の上だ。
 これからも小容量のハードディスクを、チマチマ使いながら、「紙への記録」という人類の歴史的所産が、今後変化するのかしないのか、見続けていきたいと思う。

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