稲刈りと稲穂の思い出
もう田圃は、稲刈りを終えて、稲の切り株が見えるばかりである。稲は刈り取ると、「ひこばえ」と言って、刈り取った株から、また新しい葉が出てこようとする。稲刈りが終わってしばらくした田圃に、ひこばえがうっすらと緑色の絨毯のように生えているのは、遠目に見て美しいが、冬を前にしてやがて枯れてしまう運命である。そこにははかなさもただよう。
もっとも熱帯アジアでは、「ひこばえ作」と言って、ひこばえをそのまま伸ばし、また穂が出るまで育てて、再度収穫する地方もあるとは聞く。
稲刈りは、収穫の日だから、やっぱり気分は楽しい。作業の達成感があるとともに、いろいろなことが起こったりするものだ。
水を抜いてやや固くなった泥に足を取られ、毎年決まって尻もちをつく人がいる、というような。
ただ今年は作況指数(平年を100とした収量の割合)が悪く、全国平均で90であると報じられている。これは「著しい不良」に当たるそうで、場所によっては53とか73とかいう数字も聞くから、平年の半分しか穫れない相当な被害と言わざるを得ない。そのような地方では、今年の稲刈りが楽しかろうはずもないが…。
気象庁は当初、今年の夏は「平年並み」などと言っていたので、目算が狂った農家もあるだろう。ただ自然現象である気象を、厳密に一分の間違いもなく予測するのは不可能で、農家も気象予報だけに頼っているわけでもないだろうから、当事者の人々には大変気の毒だが、やむを得ないのかもしれない。
そこらへん、自然現象の縛りから逃れられない、農林水産業の最終的な、あるいは最も根元的な弱点でもある。
さて稲刈りの話に戻そう。
稲刈りは、稲刈り鎌という鋸の歯のようなギザギザのついた、ゆるく曲がった形の鎌を使ってする。ただしこれは「手刈り」と言って、人力で刈る場合である。コンバインみたいな、機械でガーッと刈る場合は、機械が田圃の稲をがしがしと喰っていく。そうなると半年以上の苦労を自ら刈り取る実感には、少々乏しいものがありそうだが、大きな田圃では、今の時代手刈りもしていられないし、出荷コストの問題もあるから、生産第一のプロは機械でやるしかあるまい。稲刈り機に自ら乗って、大きな田圃を一気に刈り取るのも、それはそれで爽快かもしれない。
私が大学で、実験のためにイネを育てていたときには、春に実験用ポットに苗を「田植え」し、それを日当たりの良い圃場にまとめて並べ、擬似的な水田をつくっていた。これは実験のさいに、実験室内へポットごと運び込んで行わなければならない作業があるからだ。
大学にはもちろん、本格的に農耕機械を入れて作業する水田も別にあるのだが、その場でデータを取らなければならない実験や、同じ個体の経過を観察しなければならない実験、測定機に植物体を、直接かけなければならない場合などは、水田をそのまま持っては来られないから、イネをポットに植えることになる。
そういうポットに植えられたイネたちは、夏の間、研究室のメンバー交代で水やりや消毒をして、日々実験に使われる。自分の必要とするポット数を確保して、自分のポットは自分で管理するが、時によっては共同作業することもあった。
また日々葉っぱが出ては伸びていくので、油性のサインペンで葉に印を付ける。生育調査として、週に一度くらい葉の出た数と、草丈を記録する。
ポットの大きさは二千分の一アールに調整されており、理論上2000倍すれば、1アールの一般的な水田と、同じ条件になるようになっている。
やがて夏至を過ぎてしばらくする頃、イネは「止め葉」と呼ばれる短い葉を1枚出し、葉の茎の中から穂が出てくる。それがだんだん伸びて、秋には黄金色に輝く稲穂になるわけである。
もちろんポットに植えたものでも、同じように稲穂はこうべを垂れる。そうするとその年の実験は、最終的な収量・茎と葉の総量を確認する場合以外は終わりになるのである。私の場合は葉を使う実験だったから、最終収量は計算しなかった。葉の生育が第一だったからである。
そのため止め葉が出た時点で、実験はほぼ終わりで、イネを青刈りして、終わったポットは片づけてもいいわけである。
しかし私は、せっかく穂が出ることがわかっていて、既に少し穂がのぞいているイネの株を青刈りするのは、何となく抵抗があったし、他の学生や大学院生のポットが、まだ実験中でそのままであったから、ポットの集めてある圃場の片隅に、穂が実るまで置いておいた。先生には、「早く片づけるように」言われていたのだが…。
それでも十分に穂が実ったところで、一人稲刈り鎌を手にして、それらを収穫した。ポットのイネは、実験用でもあるし、結局捨ててしまうのが、研究室の常であったが、私は温室を流用した資材庫の中に、株もとを縛ってつるして乾燥させておいた。
実験終了後のイネを捨ててしまうのは、実験用として健全に育てるため、ポットによって規定量を越える農薬をかけている場合があったのと、いちいち毎年利用するあてもない稲穂の束を、取っておくスペースもないこと、また万一病気の媒介になるといけないし、品種が混ざってわからなくなってしまうのも困るからである。ちょっともったいない感じがしないでもないが、特に農薬を多めにかけているものなどは、仕方がないかもしれない。 ただ、普通に水田で栽培したもので、例えば収量がどれくらいかをはかった後のものなどは、乾燥・脱穀して研究室で炊いて食べることもあった。実際収穫祭にあわせて、いろいろな種類の米を炊いて、みんなで試食会をしたこともあるし、その時は正真正銘「東京都産コシヒカリの新米」も食べた。
また普段でも、昼食代が浮くので、水田で普通に栽培した日本晴等の品種の米を炊いて、おかずは近くのスーパーで買って食べることは、それほど珍しいことでもなかった。その意味では、「米不足」に一番強い研究室であったのかもしれない。
しかしまあ、私の場合は青刈りしてしまうのはもったいないから、何かに利用できないかと思って、とっておいたのが本音である。 これらの稲穂の束は、その後意外なところで役に立った。
そのころ、今は亡き父が、かつて高校教師だった時代、教え子であった人たちを集めて、俳句の会を毎月やっていた。
父はそれなりに作句が上手だったようで、宗匠をつとめていた。そこの9月定例会で、私が稲穂の束をたくさん持っているという話を、何かのついでにちょっとしたら、みなさん方全員「欲しい」とおっしゃる。
そこで10月の定例会に持っていくことにして、早速温室流用資材庫の中に干してあった束全てを、ポリ袋に入れてなんとか持ち帰った。安請け合いをしたのはいいが、実際にまとめてポリ袋に入れると、相当な量と重さで、自転車と電車で持ち帰るには、結構難儀した。
それでも約束通り定例会で、みなさんに配ると、大変喜ばれ、そんなに喜んでいただけるなら、まあ甲斐はあったかなと思った。
用途は玄関に飾ったりすると言う。私の立場では、あまり珍しいものでもない稲穂の束であったのだが、一般には手に入りにくいことは確かである。念のため実験用だったものだから、食べないようにして欲しいとだけは申し添えておいた。葉には、枚数を数えるための15,16,17…という、油性ペンの文字が残ったままになっていた。
このことは、毎年米の作柄が発表される頃になると、ふとよみがえる、一昔前のなつかしい記憶である。 |