2003年6月13日号

人身事故

※本文の内容に、多少生々しい描写があります。その種のものに弱い方はご注意下さい。


  人身事故
 

 地元近くのC駅で、4月の上旬の花咲く頃、電車への飛び込み自殺があった。通常、鉄道の世界では、こういう出来事を「人身事故」あるいは、「支障事故」などと呼んでいる。
 この日は鎌倉に行こうかと、タクシーでO線K駅へ向かうことにしていた。タクシーを拾って、「K駅まで」と行先を告げると、乗務員氏は、「O線は人身事故で止まっていますよ」と言うではないか。「もう開通したかな?」などとあやふやなことも言う。まあしかし、ダイヤは乱れるけれども、一日中不通でもあるまいし、そのうちには運転再開するだろうと考えて、そのまま駅に向かった。
 K駅に着いて、運転情報の表示を見ると、朝方ラッシュ時に、となりのC駅で事故があったこと、1時間以上電車が止まり、振替輸送をしたこと、現在もダイヤは大きく乱れており、有料特急は運休していることなどを告げていた。
 ホームに上がると、ちょうど下り電車が発車するところであったので、それに乗った。下り方面に乗れば、K駅の次は現場のC駅だから、C駅の直前で私は、どんな様子か窓の外を見た。すると、駅上りホーム先端から中央付近にかけて、はっきりそれとわかるおびただしい血痕が見えた。
 少々不謹慎かもと思いつつ、C駅で電車を降り、あらためてよく現場を見ることにした。まあ鉄道を趣味とするものとしては、見ておくべきかもしれないとも思った。

 どうも飛び込んだ人は、ホームの中央付近から、通過する列車に飛び込んだようだ。そのあたりから細かい肉片と、大量の血が線路に飛び散っている。その血と肉片の散らばりは、ホームの先端まで、およそ100メートルも続いていた。既に遺体の大部分は、駅の人々の手により回収・搬出されているので、その辺に置いてあるわけではない。ただ線路の間にある信号コイルの板の上に、何かをぬぐったようなあとがあるし、明らかに、あれは人体のあれだな、とわかるようなものが、レールの側面などに着いている。全て取りきれるものでもないらしい。
 信号コイル板は壊れてしまったのか、保線区の人が来ていて、新品と取り替える作業をしていた。そばに肉片も落ちているし、取り替えようとしてるコイル板にも、大きな血痕がある。
 見るとはなしに見ていた私は、何となく妙なことに気付いた。それはその作業をしている人もそうだし、またホームには当然次の電車を待つ人々がたくさんいるのだが、まるで何事もなかったかのように、関心を示す人が少ないということである。人がわずか2時間くらい前には即死した現場なのに、である。それもただ死んだわけではない。それこそあまり見たくないような死に方、轢断され、その痕跡を生々しく残しながらの死である。だが、なんだか人々を見る限り、普段の駅の光景と、さして変わらないのだ。もちろん線路をのぞき込む人、ぼーっと線路を眺める人くらいはいるが、そんな人は、私も含めて10人いるかどうかである。それに対してホーム上には100人とまでは言わないが、50人以上の人がいる。
 意図的に気持ち悪いから目をそらすという様子の人も、見る限りではいない。また気分が悪くなっている人や、卒倒している人など全くない。そしてその血だらけの線路の間では、手慣れた様子でコイル板取り替えの作業が進む。
 なんだか時間が止まっているようなというか、あるいは逆に淡々と時間が過ぎているようなというのか、ともかくとても一人の人が 、むごたらしく死んだ現場、という感じではないのである。それがまた、ある意味不気味である。人はこういう時、思考が停止してしまうものなのだろうか。
 私は線路の間に、おそらく飛び込んだ人の遺留品と思われるパスケースを見つけた。血で赤茶けたそのパスケースは、人々の無関心をよそに、その見も知らぬ飛び込んだ人の存在を、強烈にアピールしていた。それを見つめる私は、なんだかやりきれない気分になった。しばし、この人はどんな人生だったのだろうか、なぜこんな春先の、桜の花咲く日に、こんなむごい死に方をしなければならなかったのだろうか…などと考えた。むろん、その答えは出るはずもない。
 自殺という行為は、最後に自分の存在に注目して欲しいというシグナルなのだとか、社会に対する復讐なのだとか、いろいろ言われている。確かにこの現場を見るにつけ、その瞬間は、かなりな「ショー」的要素をもった行為となるだろう。しかし人々の関心は、それほど長く続いている様子もない。今晩「今日人身事故見ちゃってさ…」というように、人の口の端に上る程度のことはあっても、せいぜいそこまでだ。とすれば自殺志願の人が期待するほどの、関心を自分に引きつける効果はないだろうと思う。
 他人の関心は、この生き馬の目を抜くような現代で、さして引き寄せられないが、一方、親しい人や家族には、深い心の傷を残す。この自己矛盾が、自殺、特に飛び込み自殺のようなものでは、強く起こる。

 翌日の朝刊には、小さな記事が載っていた。それによると飛び込んだのは若い男性であったそうだ。また7万人の通勤・通学客に影響したともあった。その迷惑もさることながら、両親や兄弟の悲しみはいかばかりか。おそらく死に顔すら見ることはできまい。
 父母にもらった体を、これほど挫滅させてまで、人々の一瞬の猟奇的関心を取る意味は、おそらくないだろうと思う。


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