2004年1月16日号

キンカンの味

  キンカンの味
 

 わが家には、8年ほど前に買った鉢植えのキンカンがある。
 鉢植えだから、それほどの樹高ではないが、普通に花屋で見かけるようなものとは、比べものにならないほど、幹の太さは太い。元はちょっと盆栽風の仕立てであった。
 地元の、冬に立つ植木市で手に入れたのだが、手がけた植木商のおじさんから、直接に買ったものだ。
 ウチの人々は、ちょっと変わった植物が好きだから、植木市で、その大きさと実の美しさに、「あれはいいな」と思った。3万円という値段には、ちょっと躊躇したが、それほどの価値は十分あろうかと思われた。
 市のほかのところも見たかったから、お金を払って帰りまでとっておいてもらった。それでついでに食事をしてから戻ってみると、おじさんは、「少し前に、欲しいという人がいたが、売約済みだと言って断った」と言った。タイミングによっては危ないところだったかもしれない。かくてキンカンの大鉢は、ウチにやってくることになった。
 買ってきたときには200個ほども、実をつけていた。それはそれは見事で、短くまとまった樹に、黄色く色づいた実は、お正月のかざりにも似合うものだった。
 以来毎年、有機質の肥料をやったり、同じ市が立つと、またおじさんに剪定の仕方などを聞いたりして、ずっと育てている。
 しかしさすがにプロのようには行かないし、ベランダ栽培だから、日照が少し足りないこともあって、毎年200個収穫は無理であるが、100個以上はコンスタントにずっと実をつけていた。
 柑橘の類は、カイガラムシにやられがちである。うちのキンカンも例外ではなく、竹のピンセットで虫をつまんで防除したりもしたのだが、多量に発生したときには、それでは追いつかない。それで石灰硫黄合剤という昔からある農薬を薄めてかけるのだが、件のおじさんに伺いをたてたところ、3〜10倍に薄めてかけよ、と言う。そこで5倍に薄めてかけたところ、うちが買ってきた薬の、そもそもの濃さが違うのか、ものすごい濃度でかけてしまったらしく、一気に全ての葉が枯れそうになった。
 またキンカンやミカンは普通、カラタチを台木にして、接ぎ木してあるものであるが、うちのもそうである。時々木の機嫌によっては、台木のカラタチが芽を出すが、それは切っておくほうが良いとされる。ところがそれに気付かず、結構伸びてからやっと気付いて切り落としたりもした。
 こういう私たち素人の失敗も受けとめながら、植え替えも3回目になり、鉢の大きさも二周りほど大きくなった。もう素焼きの鉢では、持つこともできないほどの重さになったので、プラスチックの鉢にならざるを得なかった。本当は通気が良いので、この種のものは素焼き鉢にしたいところなのだが。またベランダ上を移動するときのことを考えて、常時専用の台車を作って乗せてある。これなら洗濯物を干しても、台風が来ても、すばやく動かせ、場合によってはすぐ室内に取り込める。

 そんな少々のことではびくともしないキンカンであるが、今シーズンはあまり元気がなかった。春先に新芽が出て、古い葉っぱと交替し、新しい葉が実を育てるのだが、その新芽の出方が良くなく、あまり葉が育たなかった。枯れてしまうのかと心配させたが、そこまでの様子はない。どうも昨年の春先の天候不順の影響もありそうだ。だが、全体の樹姿としては、枝の先端に葉が集中してしまい、一見徒長した植物のようになっているので、切り戻し剪定も必要な時期なのかもしれない。
 それでもなんとか70個ほど実をつけていたが、なんだか年末を待たずに実が黄色く色づいてきてしまった。
 近所の家々でも、庭にキンカンを植えている家はあるが、まだ色づく気配すらなく、新年に入って、ようやく少し黄色くなってきたくらいであるのに、である。
 そんな12月に黄色くなるキンカンを、果物好きの鳥、ヒヨドリが見逃すはずはない。ちょっと目を離していると、うちの大事なキンカンの実の、皮のところをかじって、そのあとくちばしでくわえて食べてしまう。気がつけば、ベランダの床に、キンカンのタネがたくさん落ちているということになる。
 ヒヨドリが食べに来るほどならば、それは十分実っているだろうし、現に黄色く十分色づいているのだから、もう収穫しようということになって、昨年12月中旬、早々と収穫ということになった。
 ヒヨドリに食べられてしまわなければ、そのままにしておいてもいいのだが、少し実りが早いとすれば、長く実をつけておくのは、木を疲れさせるので、それは避けたいとも思った。

 最近スーパーに行くと、「完熟キンカン」などというものを売っている。そのまま中身まで食べられるとある。
 買って食べてみると、キンカンとは思えないほど大粒で甘く、本当に皮のまま中身も食べられる。ちょっと前までは、こんなことは考えられなかったけれど、おそらくこれも品種改良の結果だろう。また育て方も根本的に違うのかもしれない。
 だがウチのキンカンは、もちろんそういうものではない。昔ながらのキンカンである。
 収穫した実は、しばらく水に浸けておく。意外と実にはカイガラ虫のあとや、都会の空気の汚れが、そのままついていて、薄汚れているのだ。スーパーで売っている「清浄な」果実とは、そんなところも違う。
 そして生でかじろうものなら、皮は甘いが、中身は酸っぱくて、そのまま食べられそうにはないから、ハチミツで甘く煮て食べる。ここらへんも昔ながらだ。
 それで出来上がった煮キンカンは、たいへん喉に良く、私のような喉風邪に弱いものとしては、ありがたいものだが、食べるとなるとタネだらけで往生する。2センチもないような実に、多ければ6個ほどもタネが入っているのである。もちろん市販のキンカンの実にだって入っているが、大きさが大きいものは、半分に切って、タネを取ってから煮ることができる。
 このキンカンの実を食べていると、昔子どもの頃、八百屋でキンカンの実を買ってもらい、皮だけ食べたことを思い出す。何とももったいない話で、中身はどうしたのだろうと思うが、当時生きていた父は、丸ごと食べていたような記憶もある。
 一方母に聞くと、母も子どもの頃、銭湯の帰りに生のキンカンを買ってもらい、同じように皮だけ食べていたそうだ。妙な共通性は、血筋であろうか…。
 あのころのキンカンは、まごうことなく、うちのキンカンそのものだった。そんな昔の思い出も、想い起こさせてくれるわが家のキンカン…。もう寒肥の時期なので、骨粉のような有機質肥料をやって、ベランダで大雨に当たらないから、薄汚れている葉っぱを、水できれいにしてやろうと思っているところである。

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