桐の木の災難<2>
(前号からの続き)
桐の木は、高い位置で花を咲かせる木なので、なかなか花を間近で、あるいはそれほど高くない目線で見ることが、難しい花と言える。もちろん、遠目にかすむように見える、薄紫色の花も美しいのだが、都市ならではのアングルで、低い目線から花を見ることができるスポットが、知っているだけで何カ所か存在する。それは鉄道の高架線上の駅、あるいは電車の中から、建物の中から、という場所である。
これは前にも少し書いたのだが、その後何本かは、木ごと切られてしまって、見ることのできなくなったところもあった。しかし、井の頭線高井戸駅前の桐の木は、一度「丸坊主剪定」にあってから、しばらく回復しないでいたが、今年はまあまあ何とか見られる程度に花を咲かせていた。それでも3年くらいはかかったが…。
この高井戸駅は、ホームが高架上にあり、桐の木は地面からはえているので、ホームから見ると、桐の木の花が、間近に見える。また無茶な剪定をされなければいいのだが…。
ところで、小田急線の高架化工事は進行し、世田谷区内のかなりの区間、電車は高架線を走るようになった。しかし、梅ヶ丘駅付近では、訴訟になっており、多数の利便性よりも、少数の住民を尊重しろと、妙な論理を振りかざして、工事の差し止めを、未だに主張している人々がいる。
この人々の論理については、いずれ触れてみたいと思うが、最近新聞で見たところ、線路で南口と北口に分断されていた駅前を、統合して道路を通し、交通の流れをスムーズにすると共に、バスターミナルを新たに作り直す計画で、梅ヶ丘駅北口に昔から植わっていたケヤキの木を、何本か伐採することにしようとしたところ、これに地元の人々がかみついたようだ。そのため事業を進める区では、計画を変更し、伐採の本数を減らして、一部は移植するように、手直しをしたのだが、あくまで全部残さねばいけないと言う。
こうなってきてしまうと、なんだか工事の差し止めのための、理由づけにしか思えなくもないのだが、駅前のシンボルツリーであった木を残そうというのは、都市景観の保全という観点からすれば、大事なことだと思える。しかし、伐採を0にせよ、というのは、樹種がケヤキということも考慮すると、そこまでしなくてはならないか?という疑問も浮かぶ。正直、ケヤキの木ならば、そこらじゅうにたくさんあるからだ。それを駅前全て伐採して、味気ないターミナルにするというのなら、何が何でも反対してもいいとは思うが、区が譲歩して、なるべく伐採しないようにすると言うのだから、実際のところ、そこが「落としどころ」だと思うのだが。
このように駅前のシンボルツリーを巡っての交渉、というのは、同じ区内の祖師谷大蔵駅前でもあった。ここには駐輪場があり、そこにケヤキの木と、大きな桐の木が各1本あって、高架線ができるときに、側道用地にかかることから、全て伐採の予定であったところ、地元の人々の要請で、計画を変更し、木が残されることになったというのである。
桐の木がシンボルツリーというのは、大変珍しく、町のシンボルとしては、粋な選択と思える。
ここの大きな桐の木は、この近辺では、他に例がないほどで、4月の末になると、それは見事な花を咲かせていた。保存樹木となったことで、伐採も丸坊主になることもなく、これで、高架線が完成すれば、駅の窓から高い位置の花を眺められると、うちの人々は期待していたのだ。
ところが、ところがである。今年の4月末、「桐の花見」をしようと、祖師谷までわざわざ見に行ってみると、なんと、桐の木はたった2本の小さな枝を残して、丸坊主ではないか!。ケヤキの木も、なんだかこもを巻かれたような格好で、これまた丸坊主に近い状況である。最初見たときには、木はどこに行ってしまったのか、わからないほどであった。側道の工事はほぼ完成し、真新しい道路ができつつあるようであったが。
あまりのことに、呆然としたが、保存樹木でも、こういうことが起こりうるということには、驚きを禁じ得なかった。
傍らを見ると、「世田谷区」という銘の入ったラバーコーンが、桐の木の回りに立てられている。ということは、世田谷区の責任において、この丸坊主剪定は行われたということなのだろうか?。
うちの母親にインタビューしたのも世田谷区の、とある部署であった。同じ区役所内での、セクショナリズムのようなものすら、感じなくもない。
しかし、それはさておき、世田谷区の責任でこれをやったということを、梅ヶ丘地区の人々が見たら、いったいどう思うだろうか?ということが、正直心配になった。
もし、梅ヶ丘駅北口のケヤキは、1本も木ってはならんと言っている人が、これを見るとなれば、「それ見たことか。区の言うことなど信用できない」ということに、なりはしないか?。裁判になっているとすれば、このありさまを写真に撮られでもして、証拠提出されたら、区の主張は、かなり危うい気もする。
じゃまだから全て伐採してしまえ、という論理と、面倒だから丸坊主に剪定すればいいやという論理は、違う事象に見えて、実のところ根っこは同じである。こうした無神経な剪定が、どこにどんな影響を及ぼすのか、ということに対して、どうしてこう鈍感でいられるのか。私にはわからない。
駅前を整備する必要性はわかる。それはしたらいい。わが町の駅も、整備によって実に便利になった。踏切のない、タクシー乗り場やバス乗り場が、駅前に整備された新しい駅は、安全で使いやすい。それは結構だが、都市の機能としての駅は、それだけで完結するのものでもない。
京阪電鉄のとある駅では、高架線のホームに、地上から木がはえている。そんな駅だってあるのだ。別に、ホームにまで木をはやせと言うのではない。それもいいけれども、駅前にシンボルツリーを、いつも美しく整備しておくことも、都市景観や、安らぎの提供ということで言えば、必要なことではないのだろうか。
まったく心ない剪定に、あきれてしまう、新緑の季節である。
(完) |