2006年4月20日号

言葉に酔う現代人<1>

   言葉に酔う現代人
 

 最近は私も、ずいぶんと怒りやすい性質になったと思うが、世間一般、どうもそのようなことらしい。
 過日、タクシーを降りようとして、住棟脇の道路左側に、車をつけてもらおうとした。そこは、こちらが直線道路で、左側にフェンスで仕切られた歩道があり、その切れたところに、左から道がこちらの道に向かって、T字路になっているところだ。
 すると、こちらのタクシーが、その交差点に止まろうとした丁度ギリギリのタイミングで、白いワゴン車が左側の道路から出てきた。タクシーは、やや急に減速し、その車と干渉しない位置に停車して、ドアをあけた。本来交差点に車が停車するのは、あまり好ましくないが、住宅地の中の細い道路でもあるし、そこしかタクシーは止める場所がない。
 ところが、そのワゴン車の運転席にいた青年が、わざわざ窓を開け、こちらの車に悪態をつく。
 「てめえ、このやろう。どけよ!」
 …という具合である。これは穏やかでない話であるが、普段から、あまり穏やかでない私は、運転しているわけでもないのに、一気に頭に血が上る。
 というのは、私が運転していて、そのように言われたのなら、ケンカのしようもあるのかもしれないが、営業車の乗務員が、弱い立場にあることを知りながら、わざと言っているに違いないからだ。
 タクシーの運転手氏も、一瞬窓を開けて、
 「なんね!」
 と、お国言葉混じりに言い返したが、私がワゴン車の青年を睨み付け、開いたドアから降りると、「すみません」と謝ったそうだ。「そうだ」というのは、私の同乗者が聞いた言葉で、私はそのワゴン車青年に向かって、
 「なんだとう?、この野郎!」
 と、言い返していて、向こうもそうすれば黙っているはずもなく、
 「どけよ、この野郎!」
 と、私に言い返していたからだ。
 私は完全に頭に血が上っていたから、とっさにナンバーを見た。…5820とあった。一瞬「よくない意識」すら覚えたと言って過言ではない。
 私は刃物を持ち歩く趣味はないが、なるほど、こういうときに、刺したの刺されたのという事件は起こるのだなと、妙な感心をしてしまった。
 この青年の言動は許し難い。そもそも営業車であるタクシーが、まったく自分の進路をふさいでいるならともかく、ちゃんと通れるように道を空けて停車したのだ。それに私は、タクシーの運転手氏が、ちょっと手を挙げて合図したのも見た。これは免許を持っている人なら、たいていニュアンスがわかると思うが、「すまん」という意味合いが込められている。
 十分車が通れる余地はあったし、悪態をつくこと自体、自分の運転の下手さ加減を露呈しているに過ぎない。それなのに、勝ち誇ったかのように、窓を開けて悪態をつく態度は、「どこかに一人ぶつかって死ね」という気持ちを起こさせるに十分である。

 私の気分は30分以上おさまらなかった。が、少し落ち着いてから考えると、その青年も、何か気に障ることがあったかもしれない。それでも車を運転して、会社に戻らねばならないのであろう。そういう立場を考えると、イライラしてつい…、というのもわからないでもない。
 私も、数歩追いかけるほど怒った気持ちになり、どこかにぶつかって死ねと思う反面、そのあと本当にそうなったら、それはそれで困るだろうなと思ったり、タクシー運転手氏が、いわれのない通報をされて、いじめられるのも困ると思った。
 タクシー運転手氏が、「なんね!」と言い返しながら、私が降りて文句をつけるのを見て、「すみません」と謝る必要もない者に謝ったのは、面倒が起こると仕事にならないという、一種のプロの計算と、そもそも客と別の車がケンカになったら、乗務員の責任問題になりかねない。そんなことにかかずらわっているよりは、口だけでも謝ってその場から離れ、また別な客を乗せ、売り上げを伸ばしたほうがよいという、実務的な判断だろう。
 そう思うと、私が怒るのも、胸に留めておくべきだろう。青年が自分の運転の、下手さを棚に上げ、一瞬止まらねばならなかったことに、腹を立てるのが理不尽なら、私も乗務員氏をよけいな事件に巻き込んでいいことにもならない。そしてまあ、その青年にすら、死ねとまでは言い切れない気持ちになる。
 すさんだ気持ちで、どこかにぶつかり、あげくに死ぬのは勝手かもしれないが、そんなことになれば、いろいろな人が迷惑する。道路が渋滞して困る人もいれば、家に帰るのが遅くなる人もいるだろう。警察だって現場検証や片づけに追われる。考えたくない事態だが、もしもそれに巻き込まれる人がいたとしたら…。それはやりきれない。

(次号に続く)→続きを読む