2006年4月30日号

言葉に酔う現代人<2>

 
   言葉に酔う現代人<2>
 

前号からの続き)
 最近どうも、キレやすい人とか、そういう感じで、言葉より先に手が出る人、いきなり粗暴な言葉遣いをする人が、多くなっている気がする。案外それには、自分も毒されているようにも思う。
 運転マナーとか、実生活上の常識からすれば、やはりこの青年の言動は、言語道断だけれども、言葉を尽くすとか、抗議するにしても、もう少し落ち着いた物言いが出来るようでないと、現代人は、それこそ刺し殺しあっていなければならないことになってしまう。それでは命がいくつあっても足りない。

 新聞を読んでいたら(※)、現代の小学生のうち、いわゆるデジタル的メディア、例えばインターネット、テレビゲーム、携帯電話、パソコンなどに接している時間が長ければ長いほど、イライラしているという結果が出たという。しかしこれは、こと小学生だけのことではなくて、人類全体の問題なのではないだろうか。
 私自身、イライラして荒っぽい言葉遣いになったり、怒りっぽくなったのも、ここ数年ひどくなった気がする。これはネット接続歴や、ワープロ・パソコンで文章を書くようになった時期と、一致している気がする。
 もちろん、元からある気質というものが、一番の原因なのだけれど…。

 さて、そのような中、教育基本法を改悪して、かすみのような「愛国心」という文言を、政府与党はなんとか形を変えて、組み込もうとしている。それは教育現場での「日の丸・君が代」の強制に、事実上の裏打ちを与えるものだと、反発する声も根強い。「強制しない」との国会答弁(野中氏)が、いつの間にかなし崩しに、「強制する」に変わっていくあたり、言葉は今、数の力の前に屈しているようにすら見えるが、そんなことでは困るわけである。
 今教育現場に必要なのは、やはり言葉を尽くすことの大事さを教えることであって、真の意味をともなわない、うわべの「愛国心」を教えることではない。
 「愛国心」とは何か、というのが問題になるわけだが、国の自然や、郷土を愛するという意味ならば、それは自然なことだと思える。
 私は伊豆の松崎が好きである。鎌倉だって気に入っている。もちろん自分の住んでいる街だって。電化製品は国産のものが好きである。そういう意味では、この国土や、市民の集まりである国を、愛してないわけじゃない。
 だが、政府に言われて愛しているわけではなく、自らの心情の発露として愛しているわけである。例えば政府に、松崎でなく、行ったこともないどこかを愛せよ、と言われても、そういう気持ちになるわけもない。
 愛するとか、好きになるとかいう感情は、押しつけられるものではない。政府に「あの人を好きになれ」と言われて、「ハイ」と返事するほど、現代人は妄信的でもあるまい。こんなことは今さら自明ではないのか?。それとも現代人は、そこまでなめられているとでも言うのか?。
 どだい、国土にしたって、駅前にはローン屋や、パチンコ屋、スーパーにマンションの小汚い看板だらけで、田んぼの真ん中にすら、大きな宣伝看板が立っており、無秩序に開発された多くの街を見ても、これを愛せよとする神経もわからないのだが。そもそも日本橋の上に高速道路を造り、それを今になってからやっぱり撤去しようかとか言っている段階で、「愛国心」もへったくれもないだろうと思う。
 本当に「国を愛する」とは、政府や独裁者を愛することではなく、旗や歌を愛することから始まるのではなく、国土とそれに裏打ちされた「人の心」を愛することから、始まるのではないか?。
 話が少し横道にそれたが、うわっつらの言葉だけを教える教育の蔓延が、この世の、妙に言葉に酔い、言葉に興奮し、言葉を受け取る脳がマヒした青少年と大人を作り出す。このからくりは、実はかなり恐ろしい。
 今日の白ワゴン車5820の運転手青年も、言葉の本当の力とか、意味や響きを知らずに育ったことは、疑う余地はない。うわべの「愛国心」などという、空虚な「言葉遊び」を教える前に、教えなければならないことはたくさんあるのではないか。
 メディアに触れる時間が長いと、人はイライラするとすれば、その構造を解明しなくてはならないが、とりあえず「言葉を使ってみる」、かつ「どう使うか」を、現代人は、学習し直さなければならない。…そう、自戒を含めて思うところである。
(完)

※朝日新聞2006年4月14日第2東京面34面

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