2004年2月13日号

教育勅語の亡霊

 
  教育勅語の亡霊
 

 タクシーの中というところは、閉鎖空間だから、運転するのも、乗っているこちらも、ずっと押し黙っているのは、なんとなく圧迫感がある。もっとも運転手氏は、そう思ってない人もいるのかもしれない。しかしまあ、結局いろいろの話を、運転手氏とすることが多い。
 私は今や自ら運転することはないけれど、一応普通免許を持っているので、傍若無人な自転車とか、自らの車体の感覚がないドライバーとか、まるっきり安全確認を人任せにしている“不良”歩行者などは、タクシーの後部座席からでも非常に気になる。それでタクシー運転手氏と、今の車は下手であったとか、あの歩行者の注意力は散漫だ、というような話で「意気投合」し、その結果、交通法規や違法駐輪などの迷惑行為の禁止すら、まともに教えない現代の教育はダメになった…それは家庭教育と学校教育の崩壊である…というように話が進むことはままある。
 そこまではいいのだが、最近立て続けに、家庭教育と学校教育の衰退について、それが「教育勅語」と「修身の授業」を復活させないからだ、という「独自の?理論」を展開される運転手氏に当たって、戦後世代の私としては、ちょっとそれは…という気分になった。
 まあ人それぞれの考えだから、別にその場でどうこう言うつもりはないけれど、心の中では、穏やかに聞いていられるわけでもない。「それはかなり違うんじゃない?」とか、「全く時代錯誤なオヤジだな」というような言葉が渦巻く。
 あまりにそれが一方的な決めつけに思えるからだが、われわれのような完全な戦後世代は、「教育勅語」とか「修身」とかいう言葉を、言葉としては聞いたことがあったり、大まかな知識としては知っていても、原文や原義がどんなものか、細かいところまで知らないのもまた事実である。そういうようでは、タクシーの中で、暗唱している「教育勅語」を朗々と唱える運転手氏に、切り返すとまでは行かないまでも、コメントすることすらできない。その図は「高度情報化社会」を生きる現代人としては、かなり悲しい。
 そういうわけで、少々調べてみた。広辞苑曰く、「教育勅語=明治天皇の名で国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示した勅語。教育の淵源を皇祖皇宗の遺訓に求める。1890.10.30.発布。1948年失効を確認…」、「修身=1.自分の行いを正し、身をおさめととのえること。2.国民道徳の実践、特性の涵養を目的とした旧制の学校の教科目の一。」…とある。また別の資料で、教育勅語の全文と口語訳も読んではみたが…。
 昨今学校教育が衰退しているということは、よく語られている。しかし、ことは学校教育だけの問題ではない。本来崩壊しているのは、家庭教育である。これはあくまで世代にだけ着目すれば、第二次大戦の終結によって、価値観が大きく変わる中、子どもをどう教育して行くべきかの指針を失った当時の親たち、それとその子どもたちがカギになると思われる。
 しかしもっとマクロに見れば、現代では、きちんとした家庭教育を受けずに、若くして親になる人は多い。かつてはそうして親になっても、核家族ということはないから、大家族の中での「追加的教育」がなされえた。今は違う。家庭教育が子どもから青年に至るまでに、きちんと完成しなければ、ずっとその人は完成しないまま、歳や体だけ大人になり、また未完成の家庭を再構築することになってしまう。そういうことが繰り返されることで、家庭教育は崩壊していったのだと思う。
 このような時代を背景にして、その教育責任が、戦後学校教育のみにあるがごとき妄言を吐く人々がいるが、全くそれは考察が足りないと思う。
 国民道徳という言葉が、「教育勅語」「修身」いずれの説明にも出てくるが、そもそも国民道徳というものそのものが、既に現代ほとんど失われているではないか。国民の代表たる我が国の首相ですら、「大きな問題を処理するためには、この程度の約束を守れなかったというのは、大したことではない」というほどである。昔は「うそつきは泥棒の始まり」と言った。
 国民道徳とは、ふたたび広辞苑の言葉を借りれば、国民が持っているべき「事物に対する人間の在るべき態度」ということになると思われるが、「教育勅語」や「修身」を学校に導入したからとて、そんな簡単に国民道徳を獲得できるならば、ことはたやすい。「教育勅語」にしたって、道徳的指針を示しているのは、前半のごく一部分に過ぎず、それ以外の部分は、この現代においては意味を持たないと言っていいと思う。
 現代人の道徳観そのものが、もう危ういのである。それは家庭教育の崩壊から来る社会教育の崩壊に根ざすものであり、学校教育というのは、そもそも最低限のしつけとか家庭教育のバックボーンがあることが前提なのだから、ひとり学校教育だけにその責任をなすりつけられるものでもない。また学校教育の質的低下があるにしても、それに対して「教育の淵源を皇祖皇宗の遺訓に求め」て、どうなると言うのだろう。
 まあ誰かを悪者にしたい現代の閉塞感は、現代人誰もが共有しうるものであり、わからないものでもないが…。
 少なくとも、まず家庭教育と連動している社会道徳をなんとかしなければ、現代人の道徳意識の欠如は、どうにもならない。そのために道徳教育を、学校に取り入れること自体には賛成だし、既にそういう動きはあるのだろう。私も小・中学校時代、「道徳」の時間があったし、一応プロテスタント系の学校に進学したから、大学まで「礼拝」の時間があって、牧師の資格をもつ教師による説教があった。
 だがそういう道徳教育の、教育現場での実践に、「教育勅語」を結びつけなければならない必然性は、私はあると思えない。
 たかが数台のタクシー運転手氏の意見で、この世が傾くわけではないだろうが、社会道徳意識の喪失が、どういう過程で起こっていったのかに、あまり関心のない人や、知識がない、言い換えればそういう問題に影響を受けやすい状態の人に、偏った知識を吹聴するのはやめていただきたいものだ。
 現代の社会道徳の問題は、いろいろなファクターが複雑に絡みあっており、簡単なことでは解決しないのは明白である。そうでなければ、さまざまな場面で教育─それは学校だけでなく─に携わる人々が、これほど苦悩するはずもない。もちろん私も、直ちに有効な対策など、打ち出せるわけもない。が、こうした身近な出来事が、近年じわじわと進む我が国の右傾化の現れだとすれば、私は道徳の風化と共に、この国の行く末を憂う。

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