ロケ地訪問流行を追う<2>
(前回からの続き)
では、ロケ地訪問が、それをする人に何をもたらすのか。あるいは、「ロケ地」に行ってみようと志す人は、なぜそんなことをしてみようと思うのだろうか。
まずは、映画なり、ドラマなり、アニメなりの主人公の気分を味わいたいということがあるだろう。俳優のまねを、自分もちょっとしてみたいという、ある意味自己顕示欲のあらわれ、というか、そこまで行かなくても、ちょっとした「有名人気分」を、手軽に味わいたい、ということかもしれない。
確かに、この「気分」は、上に書いた「ティファニーで朝食を」とか、「タイタニック」の例などでは、そのレベルかもしれないが、どうも最近流行っている、ツアーまで組んで、いい歳の人々が…とか、アニメの舞台を追って、遠く新幹線や、夜行列車・バスで…というのは、もう少し違った意味を求めているのではないか。
1904年に書かれ、今も有名な童話で、特にディズニーで知られる「ピーターパン」の続編を、世界中から公募したという記事が、新聞に載っていた。100年以上前に書かれた作品の続編を、今考えるのだから、これは難しいだろう。
しかしそれとても、「終わり」を迎えたものの、「その先」が見たいという、人間が持つ自然な感情に、立脚するものではないのだろうか。私にはちょっと、そう思える。
「冬のソナタ」は、もう終わってしまったドラマである。しかし、その舞台を一目見たい、その場所にとにかくも行ってみたい、という人の勢いは、留まるところを知らない様子である。
そのことも考えると、今のこのロケ地訪問ブームの、発生原因の一つは、「最終回後の心の穴埋め」にあるのではないかと、推察できると思う。
前にも書いたが、「コメットさん☆」という作品は、私はかなり好きである。ファミリー向け作品でありながらも、高いレベルのメッセージ性を持っていると思う。そしてそれは、鎌倉という舞台に関係するとも思う。そのあたりの細かい分析的な記述は、別なエッセイとして書いた(2004年6月1日号〜)ので、そちらを参照していただきたいが、私自身、「コメットさん☆」の舞台となった鎌倉の各所を、見て歩くのが好きであり、ホームページ上にも、そのようなページを持っているほどである。これはもう、もちろん、私が「ロケ地訪問」に没頭しているということにほかならない。
では、その自分が、どんな目的で、「コメットさん☆」の面影を、今追っているのか?。これを考えて見れば、ある程度、今のブームのもとがわかるかもしれない。
私のホームページをよく覗きに来てくれる若い人がいるのだが、「コメットさん☆」という作品を、レンタルビデオで全て見て、最終回を見終わった瞬間、「喪失感」におそわれたという。
一方私はどうであったか。私も同じ作品を、DVDで見たわけで、媒体の違いはあれども、同じストーリーを、同じように見たわけである。私の場合は、あまり「喪失感」というようなものは、感じなかったけれど、この作品に登場する主人公、コメットさん☆という人間を通して、人間がもつ「生物としての人間の哀しさ」というようなものは感じた。
この「コメットさん☆」という作品は、アンハッピーな終わり方をしているわけではない。むしろ、コメットさん☆という女の子の、未来を予感させて、静かに終わっていると言える。それでもやっぱり、ある人は「喪失感」を感じると言い、私は「人間の哀しさ」を感じる…。
すると、今ロケ地訪問を熱心にしている人も、多かれ少なかれ、同じような感情を持ったのではないか?という仮説は立てられると思う。なぜなら、私自身、コメットさん☆という“人物”の明日を考え、鎌倉に行っては、その「ゆかり」の場所を、撮影して回っているのだから。
アニメの中の人は、確かに実在しないが、ドラマや映画の中の人だって、それを演じる俳優はいたとしても、作品そのままの人格で、実在するわけではない。これはみな同じことである。
結局のところ、最終回によって断ち切られた、感情移入するものとしての主人公たちとの絆を保ち続けたい、あるいは、実在するはずはないことを知っていながら、あたかもその地にその「対象」となる「人々」の、面影を追ってしまう。そういうことなのではないのだろうか。
そのような気持ちが、人々を「ロケ地」へと誘う。そしてそこへ行ってみた人が、何か心の中で、映画の、ドラマの、アニメの主人公たちと「交歓」する…。そのようなことなのではないかと思える。無論それが、明確に人々がみな考え、思っていることであるとは言えないのだが…。
私なぞは、「コメットさん☆」という作品の、描かれた場所が、実際の場所に対して、どれほど忠実かなんていう比較までしてしまう始末である。そんなことに何の意味があるか?と問われれば、あまり明確な回答をする自信はない。けれど、何回もの訪問を通じて、鎌倉市には見知ったお店ができたりしたし、なにがしかのおみやげを、友人に送ったりすることもある。そういうことを通じて、新しい人間関係や、新しい絆が生まれるから…とは、答えられるのではないかと思っている。
(完) |