2005年6月17日号

迷惑な風

 
  迷惑な風
 

 いつもよく行く、杉並のソバ店に、なんだか柄のよくない客が来ていた。歳の頃は50歳に届いたかどうか、というくらいの男である。
 その男は、升酒を注文し、板わさなんぞをつまみにして、赤ら顔で、主人や主人の母、それにいつも親切な、バイトの女性にまで絡んでいる。要するに酔っぱらいなのだ。…と、ここまでであれば、まあよくある話である。飲食店、それもお酒を出すところなら、まま起こりうる話。立ち食い以外のソバ店で、お酒が飲めないところはないだろうから、困ったことだが、現象としては起こりうる。
 ところがこの男は、聞くところによると、この店の主人の先輩なのだと言う。どこの「先輩」であるかは、わからなかったが、自称「前にも来たことがある」とのことで、先輩風をずっと吹かせていた。
 まあ先輩風を吹かせるということは、よくあるようなものだから、その時点では特に驚かないが、こいつがまた携帯は何度もかけるわ、主人の母を「女将」と呼ぶわ、大声でしゃべって回りの客のじゃまをするわ、とどめは、酒に酔っぱらったから、「声かけ」のソバはいらないと言う。そして、タクシーを呼んでくれとまで。
 「声かけ」とは、あらかじめ注文しておいて、お酒を飲み終わったあたりで、「声をかけ」て、ソバを作ってもらうことである。
 この店は、都内でも屈指のレベルを誇る店である。その辺の普通の店とは、「格」が違うと言ってもいいくらいなのだ。その格とは、きちんとした粉を使っているか、打ち方にブレがないか、店内の雰囲気が良好か、客筋が良好か…といったことから、自然と醸し出されるもので、付け焼き刃でできることではない。それなのに、この自称「先輩」は、それらを、ことごとくぶちこわしにしてくれる。
 うちの人々は、本来おいしいはずのソバの味を、台無しにするような人間を、笑顔で許してやるほど、温厚な人々ではない。はっきり、「消えろ」というレベルである。
 ソバという食べ物は、それだけ風味を重視する食べ物だという認識である。風味の中には、食べたときに口に広がる味とか香りのほかにも、かっこつけた言い方をすれば、「粋」とか、そこまで言わないでも、雰囲気、といったものが含まれるということである。

 さて、それにしても「先輩」というのは、困ったものである。本来は、先達なのだから、後輩の模範になるようでなければならないのに、残念ながら、たいていの先輩なるものは、そうでない。エラソウにしている、頭上の重石、目の上のたんこぶのようなものに成り下がっている。
 これは、中年になると顕著になってきて、より鼻につくようになると思うのだが、どうも先輩面して、後輩を圧迫するだけで、そういう人々に範を示せない、くだらない人間が、近年増えている。
 もっとも最近は、企業の「年功序列」も崩れ、インターネットの掲示板や、チャットでは年齢とか経歴というものが、あまり意味をなさず、時代は変わってきたと思うので、「先輩」「後輩」という呼び方そのものが、今や古い時代の遺物になりつつあるとも言える。
 そうすると、よけいにくだらない先輩風を吹かせて、人のソバの味を2割引にしてしまったり、エラソウぶっている人間は、存在価値がないのではないかと、思ってしまうわけである。
 世の「先輩」と自称して、後輩者に「先輩」と呼ぶことを強要するような者は、たいてい偉そうにしているだけで、その者から学ぶべきことはない。それだけ価値のない、もしくは少ない人間ということになる。
 中学・高校時代は、先輩後輩の関係が顕著で、少しでも粗相があると、殴られたりまでするようであるが、そんなものは何の意味も、社会に出てしまうと無いと言っていい。
 そもそも中学1年生にとって、3年生は先輩であるかもしれないが、じゃあ、55歳と57歳で、そんなに差があるのかと言えば、そんなものはありはしない。両方ともいい感じのおっさんか、おばさんということになる。これはほとんどの年代でそうだ。80歳と82歳、33歳と35歳、41歳と43歳…。まあ、0歳と2歳はかなり違うかもしれないが、人生のだいたいの時期において、数字の上での年齢差は、無いようなものである。それにその人の経歴によっては、年齢よりも経験が逆転することも、多々ある。
 簡単な例として言えば、私が大学時代、農学実験で畑仕事や田んぼの手入れなどをしたとき、年長の私よりは、年下の農家出身の学生のほうが、よほど上手に仕事をこなしていた。趣味の世界だってそうである。ホームページ制作をはじめて、私は2年になるが、私よりずっと上手にいろいろなタグを駆使して、スマートなホームページを作る20代の人々は、数限りない。
 ことほど左様に、先輩後輩などというものは、今や何の価値も持たないのではないか?。年下が年上を、人生的な経験から、少し遠慮して見るということは、今後も継続されるべきだろうとは思うが、それは、年上が偉そうにしていいということではない。全て人間というのは、相互の関係であるからして、互いに影響を与えあうものである。とすれば、単に先に生まれたかどうかなどということは、時代の変化が急速になればなるほど、意味を持たなくなる。
 件の男の、最大の悪は、主人とその家族、働いている人に対する侮蔑もさることながら、ソバ店に来ていながら、そこのソバを一旦注文しつつ、食べなかったことである。まあ急に体調が悪くなったとかなら別だが…。非常識にもほどがある。
 先輩風、それはとても迷惑な風である。

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