2004年6月18日号

涙の意味<2>

 
  涙の意味(連載第2回)
 

(前号からの続き)
 上に書いた「最後の入庫を見送ったら、大泣きしてしまいそうだから、遠くの駅で一人泣いた」というのは、多少「人前ではみっともない」という心理が働いているようにも思えるし、また対象(この場合は小田急2600形電車)を、独り占めしたいからということも、あるかもしれない。
 まあしかし、古いタイプの教育を受けて育ったせいか、電車の引退を見て泣くというのには、当初違和感を感じた私であったが、ふと昔のことを思いだした。
 私が小学生低学年であった頃、家で使っていた古い冷蔵庫を、壊れていたわけではなかったが、冷凍冷蔵庫に取り替えることになった。まだそのころは冷凍ができる冷蔵庫は、それほど一般的ではなかったのだ。それで電気屋さんが来て、新しい冷蔵庫を、狭い公団の団地の一室であったわが家に、設置していったのだが、古いほうの冷蔵庫は、ついさっきまでつながっていたコンセントも抜かれ、玄関先のコンクリートの床を、引きずられて持って行かれた。その手荒く引きずられる冷蔵庫の姿は、子ども心にとても悲しくて、冷蔵庫がかわいそうで、しばらく大泣きした記憶がある。
 そんな過去を思うと、いかに私が当時子どもだったとはいえ、モノに多大な感情移入をすることが、私自身ないとは言い切れないことがわかる。とすれば、2600形電車の最期の姿を見て、大人が涙するというのも、やはり自然なことなのだろうか。
 このことの裏側には、現代人が、日常のことで、あまり感動しなくなったことも関係しているかと思う。普段感激や、感動しない分、その反動は大きいということだろうか…。
 ものの本質として考えれば、ドラマやアニメの虚構は、普通の人間が過ごしている日常の延長ではない。本当はあり得ない話を、あたかもありうるかのように、表現しているに過ぎないはずである。それを認識しながら、人は感情移入しているわけで、だからこそ、日々の実生活で涙することはあまりなくとも、虚構の世界の悲劇や感激に、人は弱いのではないか。
 一方しかし、モノに対する感情移入で、なぜ泣けるのかについては、自分の過去も含めて、はっきりとした答えは見いだせない。が、おそらく長く人とともにあったモノというのには、魂が宿るというか、ただの機械と思えない親密感を、人は感じるようになるのだろう。もちろん私もそういう感覚はよくわかる。結局その人にとっての、そのモノが持つ「存在感」がものを言うのかも。
 ただ、そうしたことで、割と簡単に涙する人は、少なくとも「心やさしき人」であろうことは、容易に想像がつく。そういう「心のやさしい気持ち」は、モノを大事に思うだけでなく、とても尊い、やがて人間同士の関係をも支配しうる、大切なことなのかもしれない。
 だが、本来は、涙を流すか流さないかで、その人の「心のやさしい気持ち」の度合いを、おしはかることはできないだろう。つまり、「涙もろい人は、心がやさしい」というのは、「真の命題」だが、涙もろくないと、心がやさしくない、というわけではないからである。普段決して涙を見せない人にでも、心やさしき人はたくさんいる。こんなことは自明の理であるが。
 歳とともに、私も涙腺がゆるくなったと思うが、私などの場合だと、意外と「文言」に弱い。だから、小田急の2600形の引退や、歌や映画、ドラマで涙することはまずないが、案外憲法の前文とか、テレビならば、ドキュメンタリーのような系統のもののほうが心にしみる気がする。
 ただ、人と自分の違いが、どういうことであるのか、という点は、正直あまりうまく説明できない。
 人の意識というようなものは、やっぱり歳とともに変わっていくのであり、それを常に一定で押しとどめておくのは、無理かつ無意味であると言えるだろう。
 したがって、明日私自身が、電車の引退やドラマで涙を流さない保証は、ないかもしれない。人間とは、おそらくそういうものなのだろう。
<完>

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