乗り物の中では
先日、小田原に行った。新鮮なアジが食べたくなったからだ。釣れれば釣ってもいいのだが、その時々によって、釣れるかどうかわからないので、駅からちょっと離れたところにある魚屋に、いつもよく買いに行くのである。
またそうして小田原に行くときには、ついでにアジ寿司を食べてくるのも、わが家の定番になっている。もっとも、それだけで行くわけではなく、いろいろ買ってくるのだが、もっぱら食い気のものばかりである。
さて、帰る段になって、電車の時刻表を見ると、有料特急「ロマンスカー」がちょうどある。特急料金が安いので、「ゆったり着席料」として、使えるときには使うようにしている。待ち時間を考えると、「特」に「急」ぐことにはならないが、混雑する急行電車よりも、ずっと快適である。
幸い、この日は平日だったから、座席はいかようにも空いていた。駅の外れにある特急券発売所で指定された席は、5番のA、Bとある。
発車時刻が近づいてくると、駅に特急が姿を現す。ドアが開いて、それに乗り込んだ。6番の席、それは私たちの前列の席であるが、そこには、1年生くらいの女の子を連れた、若い母親が座った。
ところがこの子は、電車が発車しても、ずっとぐずっている。母親は、ほったらかしにはしていないが、うまく気分を変えてやるのが下手なようだ。こうなると、静かに雰囲気良く特急に乗りたい私たちとしては、ちょっと興ざめであるが、まあ子どものことでもあるし、ある程度は仕方ないとあきらめるしかない。
比較的静かな車内だから、その親子の会話と、女の子のべそをかく声は、結構聞こえてしまう。それで、少しどんなことでその子がべそをかいているのか、聞いていると、どうやらいくつもある「おけいこごと」に行くのがイヤなのだ。
昨今、やたらと子どもを高級ブランド服で固めてしまう親とか、一週間びっしり「おけいこごと」に通わせてしまう親といった、極端に間違ったベクトルに「溺愛」してしまう親が、多くなったとか聞く。これも少子化の中で、一人一人の子どもが、大事でかわいくて仕方ない「親ばか」の、一つの究極的形態なのかもしれないが、子どものほうとしては、必ずしもそれを喜ぶわけでもなかろう。
前に座った親子が、それにあたるのかどうかは、事情を知らないのでわからないし、人の教育方針だから、あまりあれこれ言う気はないけれど、子ども本人が好んでやりたがらないものは、だいたいの場合、うまくいかないものなのではないか。
かく言う私も、まだ幼児の頃、なんだか教室に通っていた覚えがあるが、結局私のほうから拒否反応を起こして、やめてしまった。
受験で塾に行かなければならない学生・生徒や、リストラの影に気をつかう、お父さんの英会話ではないのだから、面白がってやれるようでないと、特に小さい子どもの場合、継続が難しいのではないかと思う。
それと、親としては、乗り物の中くらい、それも普段あまり乗らないであろうロマンスカーの中くらい、少しは違う楽しい話をしてやれないものだろうか。その場で子どもが何かを嫌がっていても、うまく考えを切り替える術を教えてやったり、誘導してやるのも、教育であり、親のつとめだと思うのだが。
前の親子の場合、親が既に、自ら頭を切り替えることができず、「おけいこに行かなくてはダメだ」という観念に、支配されてしまっている様子である。全くの推定ではあるが、おそらくこの親自身が、そのまた親から、ぐずっていても、「ほらあれを見てごらん。山が見えるよ」とか、「ゆったりした電車だね」とか言えるような教育を、受けていないのだろう。
私は子どもはいないし、そもそも独身だから、子どもの教育について、それほどの知識や、知見を持っているわけではない。
しかし、新幹線で乗り物酔いしていた私を、デッキに連れ出して、デッキのドアの窓から、スピード感のある線路を見せてくれた父は、私の乗り物酔いを少しは癒してくれた。そういう経験と、教育は受けてきたような気がする。
まあ、乗り物酔いと、ぐずっているのとは、かなり違うけれど、ちょっとした気分の転換法を、父は大人として私に教えてくれたのだと思う。
件の女の子は、特急ロマンスカーの最初の停車駅、本厚木に近づく頃、ようやく少しケラケラと笑って、母親と楽しそうな話をし始めた。正直、私もほっとした気持ちになった。私の思い過ごしも、あったのかもしれない。 |