2004年12月24日号

「災」と退路

 
  「災」と退路
 

 毎年年末が近づくと、清水寺の貫主が、その年を締めくくる「字」を、一字書く。これは公募で決まるのだそうだが、今年のそれは「災」だという。
 「災」とは、災いの災。確かにこの字は、今年の日本を語るにふさわしいかもしれない。
 度重なる台風被害、新潟県中越地震といった自然災害もさることながら、イラク人質殺害事件、子どもの誘拐殺人、年末近くになっても、大規模ディスカウント店の、放火事件など、恐ろしい災厄が多く人々に襲いかかった。
 現代人としては、そうした災厄が、自らに降りかかる機会は、残念ながら増えていると、言わざるを得ないかもしれない。それは向こうから、勝手にやってくる。
 では、それを手をこまねいて待っているしかないのか?。そんなことはない。その災厄を、ギリギリで避けたり、避け得ないまでも、被害程度を軽くしたりはできるはずだ。
 そうした「災」を避けるにはどうするか。これはやはり普段からの用意と、勘を働かせることに尽きるのだろう。月並みになるが。
 勘を働かせるとは、それとなく危機を予知することだったり、「危ないところには近づかない」ことだったり、近づいてもなるべく素早く遠ざかることだったりするかもしれない。昔は「君子危うきに近寄らず」と言ったものだ。要するに、「圧縮なんとか」をしているような店には、最初から行くな、ということかもしれないし、台風が近づいている時、海っぷちにわざわざ行かないことかもしれない。また、常に退路を考えておけ、ということかもしれない。
 この中で、特に大事なのは、「退路」を考えることではないだろうか。
 現代人は、スーパーに行く、デパートに行く、量販店に行くなど、文化的生活を送る上で、避け得ない人混み、というような場所がある。また海や川、山で遊ぶというような、レクリエーションだって、しないでもいいかもしれないが、それでは人生つまらない。そうした場所に身を置くとき、万一の時に、どのような退路があるかまで、意識することは少ない。しかし、今年のように、「災」の多い世の中では、退路を意識するのとしないのでは、その結果には大きな隔たりがある。
 また退路を…というのは、こと買い物やレジャーの時の、「逃げ道」のことだけではないだろう。あらゆる場面で、それは想定される。
 例えば、人と議論するとき、場合によってはケンカするときも、そうであろう。互いに衝突するしかないところまでは、その距離を詰めないほうがよい。これは車を運転していて、狭い道ですれ違う時だって同じだ。
 何か可能性の比較的低いことに、挑まなければならないときもそうである。朝の通勤ラッシュを乗り切るために、右のポケットに、下痢止めを入れておくというのも、退路を持つということかもしれないし、仕事をする上でも、今の方針がダメな結果に終わったら、どうするかを決めておかないでは、何事もやりにくいのではないか?。
 退路を探しておくというのは、結局そういう現代人に求められている、危機管理のあり方の一つなのだ。そうすることによって、迫り来る「災」を避けることが、あるいはできるかもしれない。結局、「眼光紙背に徹せよ」と言うようなことなのだろうか。

 そんな「災」だらけの今年も、もうすぐ終わる。来年が「災」だらけでなくなるという気は、残念ながら無いけれど、「災」ばかり数えていてもはじまらない。
 「いいこと」、「よかった」と思えることを数えるのも、また大事なことである。そういう心を、ややもすると忘れがちな現代人だが、来年は、もっと「いいこと」、「よかったこと」を数える年でありたい、またそうするべきだろうと、自らにも言い聞かせつつ、今年の筆を置きたい。

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