2003年5月9日号

桜切る馬鹿

   桜切る馬鹿
 

 今年ももう桜前線は、都内をとっくに通り過ぎ、北へ北へと上っていった。そして消滅しようとしているが、では今の桜の木はどうなっているかというと、なんの変哲もない新緑の広葉樹になってしまっている。
 高村光太郎は、「新緑の毒素は世に満てり」と、かつて表現したそうだが、今の時期の、もりもりと葉を出す桜の木を見ていると、そんな感じかもしれない。
 ところで、あまり気付かないことだが、多くの桜の木は、なんであんなに枝が高いのだろうか…。
 もちろん、直接的な理由は、低いところにある枝を切ってしまうからで、高いところにある枝しか残らないように「剪定」してしまうから、樹姿は悪くなるし、花を見るのも、遠く見上げなければならなくなる。
 そもそも桜の木、特に多く植えられる「ソメイヨシノ」は、枝が横に広がる性質“開張性”があるから、放っておけば横に長く枝を出し、やがてそれは地表面に近く垂れ下がってきて、地上に触れそうになると、少し上向くものである。
 「ヤマザクラ」や、「シダレザクラ」の類のように、少し立ち加減に伸びるものもあるが、観賞用によく植えられる「ソメイヨシノ」は、「オオシマザクラ」の交配種で、その性質を引いているからなのか、どうも枝が広がりがちである。
 公園などで、広い場所があるところなら、それでいいのであろうが、街路や狭い庭、人や自動車が通るところなどに植えられたものは、必然的にそうした低いところの枝がじゃまにされ、切られてしまう。
 そうやって高枝だけが残るようになっていくわけだが、問題は、桜があまり剪定に耐えないということである。
 昔から「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」というほど、同じバラ科でありながら、梅は剪定に強いのに対して、桜はあまり強くない。「ソメイヨシノ」などの人工交配によってできた品種は、特に弱いような気もする。
 剪定に強い弱いというのは、枝を切ることで、樹勢が弱りやすいかどうかということのほかにも、切り口から「芯材腐朽菌」という菌が入り込み、芯材と呼ばれる木の真ん中の部分を腐らせ、空洞化させることで、木そのものの寿命を縮めてしまうということがある。見る限り桜は芯材腐朽菌に弱いようで、枝を切ることは、可能な限り避けるべきだ。またどうしても切らざるを得ないときには、断面を焼いたり、塗料を塗ったり、金属のフタをかぶせたり、下向きになるように切ったりすることで、雨が当たって菌が繁殖しやすくならないようにする配慮が必要である。

 私の住んでいる団地は、かつて棟と棟の間にはほとんど、桜が植えられていた。近所ではちょっとした桜の名所になっていて、実際、団地の住民は、桜の季節になると、棟の前庭の桜の木の下にござなど広げて、花見を楽しんでいたりした。
 そして団地のすぐそばを流れる川沿いにも、桜並木があって、川を暗渠にする時に、団地の大家である公団が、桜の木の伐採を計画したものの、住民が反対し、枝打ちはされたが、なんとか残されたという経緯もある。
 しかし公団はその後、建物の建て替えをする事にしたのにあわせ、棟の間の桜は、ほとんど移植することなく伐採してしまった。そして川沿いの桜も、大した必要もないのに、「木が老化して、枝などが折れる危険がある」という、よくわからない理由づけをして、また枝打ちをした。これでこの川沿いの桜すらも、度重なる枝打ちで、ものすごく枝の高い木になってしまったばかりか、断面の処理をせず、桜の性質をよく知らないのではないか?とすら思わせる、稚拙な枝の切り方しかしない植木屋にやらせたものだから、樹勢は弱るばかりである。公団は体よく枯れてくれれば大助かりと思っているのでは?、と、勘ぐりたくもなるというものだ。
 多くの桜は、車に枯れ葉が落ちて汚れるとか、毛虫がつくからとか、どうでもいいような理由で枝打ちされる。それなら最初から植えなければいいのにと思うのだが。
 昔の人は、桜が剪定にあらゆる意味で弱いことを知って、「桜切る馬鹿…」と言ったのだと思う。だが現代人の身勝手と、心の余裕の喪失によって、昔の人々の戒めは、半ば意図的に忘れ去られ、桜の木に限らず、木々にとって受難の時代となった。
 桜守などと呼ばれる人が、名木の桜を救ったりしている一方で、「名もない」桜たちは、人の手が原因の腐朽と戦わなくてはならない。近所の桜たちには、もはや桜守はいないのだろうか。


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