支配される人類
最近デジタルカメラの、新しいやつを買った。フィルムカメラの時代から、同じA社のものを愛用しているのだが、商品の箱を開けると、フィルムカメラのものと同じ、「ネックストラップ」が、付属品として入っていた。
「ネックストラップ」とは本来、首から下げられるようにするための、ひものようなものだ。カメラの本体の、金具に通して、いろいろなところに下げて使う。
フィルムカメラの場合は、フィルムに何らかの不具合が生じたときの、強制巻き戻しボタンを操作するピンを兼ねていたりするし、カメラに重量がある程度あるから、手やバッグ、電車の壁にあるコート掛け金具などにかけるということもありうる。そのため首から下げる以外の用途も考えられる。しかしデジタルカメラのそれは、その小ささや、用途の手軽に1枚…という性質からして、ただ首から下げることしか考えてないと言ってもいいだろう。
一方、ネックストラップは、携帯電話でも流行しており、最近は家電店の、携帯電話のコーナーに行けば、いろいろなネックストラップを売っていて、付属のものと取り替えて使うようになっている。実際、町で、携帯電話を、少々得意げに、首から下げている人をよく見かける。
だが、どうもあの首から下げているというのは、私は好きになれない。なぜなら、いかにもそれに「支配されている」という感じがするからだ。
もちろん、それに対する反論は、多いだろうとは思う。またそんなことを意識している人は、まあいないと言えるかもしれない。だから、これは私の個人的な意見、ということになるのであるが、それにしても、なんだか犬の首輪のように見えてしまうのだ。
犬という動物は、猫に比べてずっと飼い主に従順な様子である。猫はそうではない、とまでは言い切れないのだが、一般の認識は、まあそういうものだろう。私もそう思っている。その犬がしている首輪に、人間のしている携帯電話ネックストラップは、どうも似ている気がしてしょうがないのだ。
一時期、海外旅行に出かける、主としておじさんたちが、首からでかい一眼レフカメラを下げ、行く先々でパチパチと写真を撮るだけで、ろくに本来見るべきものを見ないというのを、その国の人々に揶揄された時期もあった。今は時代が変わったし、一眼レフ自体も、流行ではなくなり、そもそもデジタルの時代になってしまったから、ばかに重いカメラを首から下げて、肩が凝っているような人は、極端に少なくなったのではないかと、思える。
しかし、そのような時代に、首から下げている一眼レフに、「人間が支配されている感じ」というのは、全く受けなかった。というか、そういう観念自体が存在しなかったと言える。つまり、機械が人を支配するのではなく、あくまで人が機械を操作するのだ、という感覚である。
ところが時代は下って、いろいろな機器が手軽になる反面、様々な機能を持つようになり、それをいちいち「学習」しないと、使いこなせないようになってきた。その際たるものは、インターネットまで見られる携帯電話だったり、パソコンだったり、デジタルカメラかもしれない。
そうなってくると、機械と人間の主客は、ややもすると逆転し、人間が、あたかも機械に使われるようになってくる。その姿は、ネックストラップが首輪っぽいというのと、ダブる。
情報家電というものは、例えば携帯電話や、パソコン、デジタルカメラ…といったものを、すぐ思い浮かべるが、本来それらは、人間が情報を管理するべきもののはず。ところが実際のところ、それらはなかなか使いこなしが難しく、情報機器に人間が飼い慣らされてしまったり、時によっては、それらの機器が発する情報そのものに、人間が振り回されてしまうという状況が、まま見受けられる。
だんだん文明が進むと、人間はいろいろなものを使いこなし、便利になっていくはずなのに、少なくとも一部では、逆にモノや情報に管理される人間がそこにいる…というのは、あまりに皮肉な状況である。
かくいう私も、携帯電話、パソコンはもちろん、FAXに、プリンターに、デジタルカメラに、DVDプレーヤーにと、いろいろな機器に「支配」されているのが、悔しいけれど、明白になってしまっている。
電話帳機能が、使いこなせない携帯電話、不具合が多いパソコン、紙詰まりがたびたび起こるFAXにプリンター、基本モード以外ほとんど使わないデジタルカメラ、ディスクのメニューをなかなか表示させられないDVDプレーヤー。どれをとっても、間違いなく私のほうが「操作」されている。これでは、見えない首輪が、首に巻き付いているようなものである。 |