信州花紀行<4>
(前号の続き)
やってきた年代物の特急電車で小布施をあとにした。昭和30年代の造りで、座席や小さい窓などに時代を感じさせる。いすが前半分と後ろ半分で決まった向きに向いており、回転させることはできない。真ん中の座席だけは、両側から向かい合う形になるので、4人分のボックス席だ。もし満員になると、乗客の半分は、後ろ向きに座ることになるが、平日の日中とあって、グループ客をのぞいては、反対向きに座っている人はない。冷房も軽く入れられており、窓も開くから、なかなか快適だ。100円の特急券が高いか安いか、判断は難しいような感じであるが、まあ妥当な線ではないだろうか。
特急は薄日が射したり、雨がぱらついたりの不安定な天気の中、リンゴ畑やモモ畑、学校の校庭をかすめて、春の風を受けながら走る。モモ畑のピンク色が、遠目に鮮やかだ。右手には妙高や戸隠連山といった、小布施駅の看板に紹介された山々が、遠くにかすんでかろうじていくつかは見える。
ふたたび長野市内の地下線に入った特急は、善光寺下駅に「御開帳臨時停車」したあと、長野駅に着いた。ギギィというブレーキ音が、また時代がかっているが、薄暗い長野の駅に、丸まっこいボディにつけられた「善光寺御開帳」のヘッドマークが映える。
晩の食事がわりにJR長野駅で売っている、「善光寺会席寺前弁当」というのを買って、メルパルクに戻った。メルパルクの和食レストランは、あまり口に合わないためだ。
翌日、昼頃の新幹線で帰京することにした。前日に買った「善光寺会席寺前弁当」は、たいへんにおいしかったので、また一つ買った。これは東京に帰ってから食べようと思う。
駅の自動券売機で指定券を買うと、二人分であるにもかかわらず、三人席の窓側と中央であった。新幹線は、東海道の初期から、基本的に三人−二人の一列五人掛けであるが、どうも発券システムの欠陥なのか、いつまでたっても二人づれの乗客に、三人席側を割り振ってしまうケースがなくならない。満員であるなら仕方ないが、残席がある場合でも平気でこういうことをするので困る。
内田百閧ヘ、一等車の切符が取れなかったとき、駅長に掛け合ったりしているが、今の世の中そんな方法がとれるわけもない。結局JRが、血の通ったサービスを提供できていないということになると思う。
仕方がないので、乗車してから車掌氏に頼んで、席を移動させてもらった。そこは車椅子対応座席で、三人掛け側でも二人分しか座席のない場所であった。
実のところ、帰りもしなの鉄道でじっくり帰ることも考えたが、疲れてもきたので、帰りは新幹線を選んだのである。乗り比べの意図もないとは言えないが。
やがて、上りの「あさま」は、静かに長野駅をあとにした。
上田駅に近づく頃からトンネルをくぐり始め、車窓風景はほとんど楽しめない。わずかに防音壁の彼方に、モモ畑がちらりちらりと見える程度だ。
そしてトンネルによる、「無視界状態」は、上田を出ると非常にひどくなる。トンネルに入っては出るの繰り返しで、まったく車窓の印象など残りさえしない。わずかに佐久平駅付近で、コブシが咲いているのが見えたが、ほとんどトンネルの暗闇があるのみとすら言える。
トンネル工事では、今に至っても結構犠牲者が出るようだ。この長野新幹線を通すために、どれだけの人が亡くなったのか、わからない。しかしおそらくゼロではないだろうと思う。その人々が苦労して掘った、そして自らの命すら捧げたトンネルが、利用客からうっとうしく思われるとしたら、なんだか浮かばれないのではないだろうか。
新幹線に代表される近代的鉄道システムは、感傷的なことや、感覚的なことは排除されている。そのこと自体は当然のこととして受けとめられる。昔のように山をよけて走っていたら、新幹線の本来の速度は保てない。碓氷峠の急勾配を、いとも簡単に上り下りするのは、旧来の路線では不可能であった。
だが、あえて言えば、車窓がトンネルばかりの旅は、やはり面白いとは言い難い。乗ると同時にパソコンや携帯電話でメールを送受信し、弁当を食べ、ビールを飲んで寝てしまう出張客なら、それも良いかもしれない。しかし旅するものは出張客だけではない。旅の本質は、「非日常」に自らを置くことである。地下鉄のような車窓では、「非日常」を体験するのは難しい。
冒頭に「失った風情のかわりに、獲得した新しい感動もある」と書いた。システムとしての新幹線は、その感動を演出する装置であるけれども、感動を提供する場所そのものではないということは、認識しておいていいかもしれない。
軽井沢に着いた「あさま」の車窓には、しなの鉄道の赤い電車と、レンギョウやコブシの花、そして浅間山の山容が見えた。
わずかな停車の後、走り出した「あさま」は、またいくつものトンネルをくぐり、あっさりと大宮に到着した。
二日ぶりに見る東京の桜は、もうぐわぐわと葉を広げる葉桜になっていた。
<完>
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