中古模型の再生とネクストユーザー
私の趣味の一つは、鉄道模型を作ること、およびそれを走らせることである。最近は余り時間がないので、走らせるほうはご無沙汰であるが…。
ネットで、さる鉄道模型に関する掲示板を見ていたら、「おや?」と思う書き込みを見つけた。
とある年輩とおぼしき人物が、「新品で買った模型には、非常に愛着を感じるが、中古で買ったものには、それなりの愛着しか感じない」という意味の書き込みをしていた。「ううむ、これは反対意見がたくさん来るのでは?…」と思ってしばらく見ていたが、果たして多くの人々が、「新品であろうと、中古であろうと、自分の好きなものには分け隔てなく愛着はある」という意見のようであった。
この元の書き込みは、要するに「自分で苦労して貯めた金で、やっと買った新品の模型機関車や電車には、格別の愛着があるものだ」ということを、中古品との対比で言いたかったのではないかと推察される。しかし、その後の掲示板参加諸氏の叱責の様子を見ても、どうもうまくその意味が伝わらなかったようだ。かくいう私も、最初は違和感を感じたほうの口である。
だがこの人の言い分も、少し読み替えをしてみれば、それなりの説得力がある。
例えばはじめてのボーナスで、高価な機関車が買えたとする。あるいは子どもの頃、親にねだりにねだって買ってもらった機関車があるとする。そういった特別の意味のある新品には、特別の感情がこもるということを表現したかったとすれば、それはそれでうなづける。
そんなの中古品だって同じではないか、という声あるだろうとは思うが、上に書いたような場合は、たいてい新品を買うものであるし、中古品には新品と流通が根本的に異なることも、影響すると考えられる。
中古品というものは、骨董品、古本、はてはデパートのバーゲンなどと同じで、一期一会のものである。それはつまり、欲しいものは見つけた瞬間に買うか、取り置きがきくなら、そうするかしないと、入手できないということである。あまり悠長に「買うか買うまいか…」などと逡巡していたり、お金を貯めていては、間に合わないで他の人に買われてしまう。
また商品の状態も、前の持ち主によってまちまちだという問題もある。この点新品は、おおむね統一されていて、手作りであるから多少の仕上げの差はあるけれども、状態の悪いものは、まず店頭に並ばない。ある程度の数量作られるから、一期一会というほどのものは、なくはないが、それが全てではない。
中古品の品質は、ジャンクと呼ばれるボロボロに近いものから、展示しておいただけの新品同様まで様々である。
というようなわけであるから、新品を買うとすれば、店頭や雑誌で予告もあるので、ある程度の時間的余裕も生まれ、つまり買うか買わないか、Aという品とBという品どちらが欲しいかなど、考えることもできる。
というか、一昔前までは、私も経験があるが、何度も模型店に足を運び、ウインドウを眺め、ねらっている商品が在庫しているのを行く度に確認し、その間ずっとお金を貯めて、何ヶ月かあとにやっと買ったなどというのが、わりと普通のことであったのだ。
確かにそうやって手に入れた「新品」に、特別な感情がないか?と言われれば、それはウソになるだろう。亡き父の買ってくれた電車とか、中学校時代にはじめて買ったもらった、小さな電気機関車など、「思い出の新車(当時)」は、たくさんある。
そういった経験や、現在の鉄道模型界を、概観して総評するならば、前出の年輩の人の書き込みには、やはり一定の説得力があると、言わなければならないかもしれない。
しかし最近、私はもうほとんど新品の模型を買うことはなくなった。
なぜか。それは、ちょっとした非量産品の「手作り」模型は、軽く一台10万円を超えるような値段になり、さらに少量生産化したことによって、以前のように時間をかけてお金を貯めるというレベルではなくなってしまったこともあるけれど、決定的なのは、「中古品を修繕・再生する面白さ」に取りつかれてしまったことだ。
「中古」という字は、昔は「ちゅうぶる」とも言った。この読み方は「重箱読み」だから、本当は不自然な読み方なのだが、新品でないことを揶揄する意味が、少々含まれていたのかもしれない。
しかしバブルもはじけて、ネットオークションが盛んになり、古道具屋は「リサイクルショップ」と名を変えた現代、中古の模型にかつての「ちゅうぶる」のイメージはなく、人の手を経たことに、抵抗感は少ない。
鉄道模型は、新品であれば、専門模型店や、最近では一部の量販店で手に入れることになるが、中古の場合は、「中古も取り扱う」模型店、中古専門の模型店、ネットオークションが主流となる。だが、まれにはリサイクルショップなどということもあるにはある。
私はもっぱら、ネットオークションか、中古も扱う模型店というパターンが多い。
では中古の鉄道模型というものが、どうやって流通に乗るのか。それは基本的には元の持ち主が、飽きてしまったとか、別の品物を買いたいのでその資金の足しにしたいとか、専門的になってくると、「自分の設定した時代考証にあわない」とか、場合によっては所有していた人が死去して、ご家族が…などというものである。そうした諸々の理由で、模型の新たな持ち主、「ネクストユーザー」への流転の旅が始まるわけである。
そうして、私の手元にやってきた種々の模型車輌たちは、私なりの手を少なからず加えてから、「わが鉄道」にデビューするのだが、その過程がとても面白い。
たいていどこかしら傷んでいるので、修理もするが、元の持ち主の、その車への愛着度、手間の掛け具合、大事にしていたかどうかといった、その人の、大げさに言えば性格や、模型全体に対するスタンスというか、思想のようなもの、それから技量やセンスといったこともわかると言えばわかるからだ。
これはまあ鉄道模型に限らないことなのであるが、模型のように細かい工作が施してあるもので、繊細なものほど、そういった人の性格のようなものが、出やすいのだと思う。こう書くと、「個人情報」が洩れているようで、気味が悪いと思う向きもあるだろうが、その人の指紋から個人を割り出すというようなことではない。ある種、見も知らない元の持ち主を、模型の状態から、「プロファイリング」するようなものである。プロファイリングできたからと言って、なんの得になるものでもないが、模型を分解したり、メンテナンスするために部品交換するときにわかる特徴から、いろいろ想像するのは、結構面白いものである。
部品に致命的欠品があって、走らない機関車とか、修理がきかないほど壊れている客車など、「ハズレ」を引くこともなくはないが、ガタガタの状態から、復旧に挑戦することも、実は自分の技量やセンスを試されているようで楽しい。
生命は永遠ではないし、形あるもの全ていつかは滅びるものだから、自分も模型たちも行く末はわからないものだが、模型はそうそう簡単に壊れるものでもない。材料と工作がしっかりしていれば、おそらく物理的寿命は人のそれより長い。そのことを考えると、ちょっと怖いような感じも受けるが、そうである以上、私の所有している模型も、やがては次の持ち主、「ネクストユーザー」の手に渡るときが来るであろう。
一昔前の、鉄道模型雑誌に、老モデラーのSL製作記事があった。この人は高い技術力を持った人のようで、その模型は各所が細かく作り込んであり、実物さながらの構造をしているにもかかわらず、なぜかヘッドライトの電球が、むき出しでついており、その配線のごつさが、模型全体の雰囲気を壊していた。SLの煙突の後あたりに、電球の配線がうねっている。これは全体に対して、ややバランスが悪い印象である。
記事を読むところによると、それは将来、孫にその模型を譲るとき、ヘッドライトが点灯したほうが面白かろう、というようなことなのだそうだ。それであえて外観を犠牲にしてでも、孫の気に入るように…と、ヘッドライトを点灯するようにしたのであろう。
この人が、模型群を孫に無事引き継いでもらえたかどうかは、定かでない。そこまで「未来のネクストユーザー」のことを、考える必要は無いような気がする反面、この老モデラーの思想も否定しきれない。
未来のネクストユーザーが、私の模型を手に取ったとき、どんな感情を持つだろうかと思えば、何となく、どこかで身の引き締まる思いが、しないとも言えない中年の私である。
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