2005年1月28日号

Y子さんのこと

 
  Y子さんのこと
 

 最近、「ちゃんとしっかり」中年になった私は、時々思い出す人がいる。高校生の時に、つきあっていた同級生のY子さんのことだ。
 旅行は、よく恋愛をつくる…のかもしれない。当時私は文芸部で、夏になると東北地方へ、参加可能なメンバー同士、題材探し旅行を企画していた。2年の時と、部長になった3年の時である。
 1年の時にも、文芸部の旅行というのは、あるにはあったのだが、これは芭蕉研究部と同行で、平泉への旅行だったから、文芸部単独ではなかった。ただ現地では、先輩の計らいで、芭蕉研究部の人々とは別行動をし、花巻市や、松島などを見て回っていた。
 これらの「文芸旅行」の目的とは、「非日常に自らを置くことで、イマジネーションを働かせ、それを題材とした文章を書く」ということなのだが、実際のところは、まあ、みんなでわいわいと旅行を楽しもうということのほうが、大きかったのだと思う。ただ、その時の見聞を、長編小説にしていた同輩も、いたように記憶している。私はというと、俳句ばかり作っていた。
 そんな旅行ではあったが、芭蕉研究部と、文芸部では、当然目指すものが違うと言える。そこで翌年、つまり私が高校2年生になってからは、東北南会津に旅して、題材を探しに行く、それは列車に乗って…、民宿に泊まり、魚釣りなどもして…と企画した。もっとも、旅行の主導権を、文芸部自身で握りたいという、切実な?願いもあったのだが。
 そうして、今からはるか昔の夏、お盆前で混雑する列車に乗って、私たちは旅出った。目的地の南会津は、上越線の小出から、只見線で北に入ったところ。そこは中学時代の恩師の故郷で、私自身家族旅行でも行ったところだから、見知った場所であったのだ。
 ミャク釣りという釣り方で、ヤマベやハヤが、だいたい誰でも釣れる川が流れ、温泉もあり、民宿での朝食には、謎の山菜が出るなど、今思い出しても、楽しい思い出が詰まっているようなところである。
 2年生の時に同行したのは、文芸部員計5人であった。もともと人数は少ない部員の中で、ちょうど2泊3日の旅行に参加できるのは、さらに少なかった。男子2人、女子3人である。
 男はN君と私、女性はMさん、Y子さん、1年後輩のKさんであった。本当は先輩にも参加して欲しかったが、当時二人いた先輩部員は、残念ながら予定が合わず、そのうちの一人Zさんには、翌年OGとして参加していただいた。
 
 さて、その楽しい旅行が終わって、ふたたび夏休み明けに、同行した部員友達のN君と会ってみると、なんだかMさんとの間で、「恋が芽生え」てしまったらしい。N君は、「旅行でいろいろ話しているうちにさ」、と言う。なるほど、そういうこともあるのかと、妙に感心していると、さらにしばらくたって、それは1ヶ月くらいたった頃だったか、文芸部の日常の活動である合評会をしていて、Mさんが私のことを呼ぶ。会が終わってから、話を聞いてみると、「Y子さんが、つきあって欲しいと言っている」と言う。
 これには正直びっくりした。今までそういうことは無かったし…。まさに晴天のへきれきとでも言うのだろうか…。
 私としては、特に意識していたわけではなかったから、お断りするような理由があるわけでもない。もちろん答えは「Yes」であった。
 そうして、なんだか浮ついたような「おつきあい」が始まった。杉戸にある某動物公園に行きたいと言われれば、そこにアルパカを見に行き、城ヶ島に行ってから油壺にある水族館を見たり。いろいろではあったが、今にして思えば、非常にプラトニックな、笑ってしまうようなものだった。
 当時は、奥手な高校生の「初期の」つきあいなどというものは、よほどのことがない限り、そんなものであったのかもしれない。
 ただそういうつきあいが始まると、なかなか不自由なことにも気付いた。それは例えば、クラスの女子生徒と話をするのでも、ちょっと気を使うとか、バレンタインにチョコなどいただくと、そのお返しをどこの店の何にするかとか、電子メールなんてものも、携帯電話などというものも無かった当時、黒電話でY子さんに電話をするのに、いつならいいかとか、長電話はまずいなとか…。まったく今からすれば、微笑ましいようなレベルの話である。
 しかし、何事にも終わりのようなものはやってくる。彼女がある日何が起こったのか、今でもわからないが、突然登校してこなくなってしまったのだ。原因は、いまだによくわからない。いや、別に今から調べようとは思わないが…。
 どうも、話に聞くところによると、彼女は小学校の頃から、時々そのような傾向があるとのことであった。今から思えば、それは、誰にでもあるような、軽い鬱傾向なのではなかったかと思うのだが、当時何もわからなかった私は、何もしてあげられなかった。彼女は、それだけセンシティブだったのだろう。
 今現在の知識があれば、電車で1時間くらいのところに住んでいたのだから、飛んででも行くところなのだが、電話しても本人は出てこず、お母さんに話をするだけだったし、何となく「そっとしておいて」という雰囲気が、そのお母さんとの話の端々に感じられたので、あまり立ち入ったことは聞けずじまいであった。
 そして1年近く続いた「初恋」のような関係も、いつしか自然に消滅していった。私も彼女もやがて大学に進学した。そして別々の道を歩みだした。
 大学を卒業して、数年した頃、彼女が結婚したという話を、風のたよりに聞いた。特にどうとも思わなかったが、そのさらに1年後くらいに、偶然Mさんから話を聞いたところでは、彼女は自らの結婚について、「こんなはずじゃなかった」と漏らしていたそうだ。
 それを聞いたとき、私は説明しがたい複雑な気分になったのを、覚えている。そしてそれは、今でも時々思い出すのである。今頃どうしているかなぁ…と。その後うまくいっていればいいのだが…。
 私は彼女が不登校に陥ったとき、なぜ会いに行かなかったのだろうかと、思い出すたびに思う。もちろん、それで彼女を、どうどう巡りの思考から、救い出すことができた自信など、ありはしない。しかし、もしそこで何か違った展開があれば、結婚した彼女に「こんなはずじゃ…」と言わしめるのとは、また違った人生が、あったのではないか?。その可能性が、今でも時々心にひっかかる。人は人の運命を変えることなど、そうそうできはしないはずなのに…。
 今現在、彼女の消息を、誰かに尋ねることができないわけでもないだろう。しかし、それを知ってどうするか、という思いと、いや、それでもやはり知りたい、という二つの思いが、自分の心の中では交錯する。やはり人間は、いつも心持ちを一定に保っていることなど、できはしないから…。
 
 当時彼女にもらったテーブルセンターが1枚ある。家庭科の時間に一生懸命作ってくれたらしい。正直言って、あまり上手じゃない編み方だが、その真ん中には2匹の魚が編み込まれている。
 もらった当時から、2度の引っ越しの経た今でも、何となく捨てられないでいる。

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