2004年7月16日号

よみがえるキンカン

  よみがえるキンカン
 

 わが家の大事なキンカンの鉢植えが、かなり危機的な状況になって、枯れそうになり、それでもようやく6月の末に、新芽が芽吹いてきたことは、既に書いた通りである。
 だんだん新しい芽は、新葉を伸ばし始め、それとともに古い、わずかに残っていた葉は、順次落ちていった。7月も半ばの今、もう古い葉は、1枚も残っていない。その役目を終えて、新しい芽にあとを託して、散っていったのだ。
 しかし、その残った葉たちがなかったら、この木は死んでいたに違いない。新しい芽が成長し始めるまではと、がんばり続けた古い葉の、生命力の強さには、感慨深いものがある。あらためて植物は、本当に正直であり、その移り変わりにの潔さにも、素直に感動を覚える。
 今キンカンの木は、右側だけに新芽ができ、左半分は完全に枯れた状態になっている。
 右側の新芽は、至って元気で、薄グリーンの色も美しく、ちょっと季節外れの新緑色だ。驚くことに、もう花を数輪だがつけていて、中には実になりそうなものまである。
 もちろん最盛期の、数百も花がついていた頃とは、比べものにならないが、こんな悪条件の中でも、花を咲かせようとする植物の力とは、いったいどこから来るのだろうかと思える。
 右半分が良好に生育し、左半分が枯れたのは、おそらく根の影響だと思われる。古根をさばいたときに、左側のダメージが大きかったのではないだろうか。そのため地上部分にも、それが影響し、右側だけが残ったのではないかと想像される。
 やはり人間の手が、失敗のもとを作ったとしか考えられないが、基本的に露地に植えるべきなり木を、鉢植えにするのは、なかなか簡単なことではないということか。
 今回のキンカンの危機は、もともと根に原因がありそうだが、根を傷めないように植え替えをするのは、かなり難しく、鉢を大きくする場合以外では、何らかの手を加えなければならないだけに、素人には困難な作業だ。そもそも根の生育が悪い状態を、なんとかしなくてはならなかったので、やはり鉢の選定といった、案外物理的なファクターも考慮しなくてはならないのだろう。
 もし次回の植え替えをするとしたら、その時はどうやっても素焼きの鉢にしてやろうと思う。根の生育は、土の通気性に関係がある。通気の良くない土のもとでは、根はよく育たない。プラスチックの鉢は、どうしても鉢の側面から水や空気が出入りしないから、根の生育は、ハナから良好でないと予想される。
 しかし、それにしてもよくぞ生き延びてくれたと思う。
 ちょうどこのキンカンが、調子悪かった頃、うちの母親が肺炎になった。母親は肺結核がひどかったせいで、肺の機能が落ちており、ただちに生命の危険があったとまでは言えないが、養生次第では最悪の結果の可能性が、あるにはあった。幸い抗生物質の薬が良く効いたのか、入院もしなくてすみ、少しずつ快方に向かったのだが、どうした偶然か、医師から「もう大丈夫」というお墨付きをもらった前の日に、このキンカンが芽吹いたのだ。
 キンカンと母親の肺炎との間に、ただちに関係があるとは、もちろん思わない。しかし、生命が未知の力で引き合うとしたら…。それは真に科学的に考えれば、あるともないとも言えない。科学は、説明できないものの存在を、否定まではし得ないからだ。
 だから、全く無関係で、単なる偶然であったとも言い切れない気もする。
 そんな不思議な思いもするほど、この一月は劇的な変化であったキンカンだが、いまクッションがわりに、まだ左側の枯れてしまった枝も、少し残してある。ベランダ植物なので、洗濯物を干したりするときに、新しい芽を傷つけないようにと考えてのことなのだが、いずれ新芽がしっかりした葉に成長したとき、残りの枯れ枝も、切ることになるだろう。それは、もうすぐ先だろうか。

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