直角カルダン駆動試験車クモハ40030製作とFS−201台車

 
 国鉄の旧形国電、というと、吊り掛け駆動に1M制御、AE自動ブレーキ、大多数の車輌がシルヘッダー付きの車体、というイメージが浮かびます。特に、初期の20メートル車として著名なモハ40系列の電車も、当然それに属します。両運転台のモハ40形(のちクモハ40形)、片運転台のモハ41形(のちクモハ41形)、制御車のクハ55形、付随車のサハ57形、半室2等車のサロハ56形(のちサハ57に編入)、モーターをMT30形として強化した、片運転台のモハ60形(のちクモハ60形)、モハ40のモーターを、モハ60と同じに交換したモハ61形(のちクモハ61形)がありました(他に改造車数種)。
 ところが、このうちモハ40形には、戦後の一時期、直角カルダン駆動やクイル駆動を試験した車輌が存在したのです。つまり、旧形国電でありながら、吊り掛け駆動ではない時期が存在したということになります。この事実は、意外と知られていないようです。

 戦前から戦後に至る鉄道省→国鉄電車の技術、特に走行系は標準化されており、100kwか128kw(電圧1350V時)のモーターを吊り掛け駆動で動かし、最高95キロで走るという流れは、ずっと変わらず継承されていました。もちろん、戦争による進歩の停滞があったわけではありますが、台車の構造は、ペデスタル式のDT12形が標準形式であり、それをコロ軸受け化したDT13がモハ63形で採用されたに過ぎず、新しい構造の台車は、わずかにDT14とDT15形が、一部のモハ63に付けられた程度であって、さしたる進化はしていませんでした。
 しかしヨーロッパやアメリカでは、高速電車が1930年代から発達し始め、それらには新しい駆動方式の採用や、台車・車体の画期的改良がなされており、日本はそのような技術革新からは、取り残された状態でした。
 戦後になって、日本の技術者たちが、欧米の進んだ車輌技術に関する情報を入手しうるようになると、それら当時先進的であった欧米の技術を、日本の電車にも応用・導入できないか、当然にして研究し始めました。
 1950年代に入るころより、まず台車の構造、中でも軸箱の支持方式について、本格的に新しい方式が模索され、試験的な要素を残しつつも、いろいろな方式の軸箱支持の台車が作られました。それらは、私鉄の車輌に採用されたり、国鉄でも試験が行われるようになりました。それは例えば、「ゲルリッツ式軸箱支持」であったり、「軸梁式台車」と呼ばれるものです。ゲルリッツ式は、軸箱の左右にコイルバネを置き、その上下いずれかに板バネを置くことで、それまでのペデスタル式のもつ弱点である、軸箱左右の摺動部分を無くす効果があり、一定の成果をあげました。軸梁式台車も、軸箱を台車枠から出した梁で支えることで、同様の効果を持つものです。ゲルリッツ式は、戦前の国鉄オハ35形客車でわずかに試験したことはありましたが、本格的なものは戦後阪急や名鉄、小田急などに導入されています。1953年の営団丸ノ内線300形に採用された、FS−301形台車もこの方式です。軸梁式は、試作台車が国鉄サハ78形に取り付けられたこともありましたが、本格的な採用は京阪、山陽がそのはしりと言えるかと思います。それまでのイコライザー式や、ペデスタル式に代わって、さまざまな形態の軸箱支持方式をもつ台車が、この時期に開発・実用化されました。
 一方駆動方式については、ヨーロッパで開発された「カルダン駆動」や、「クイル駆動」、アメリカで盛んに採用された「WN駆動」など、「分離駆動」とも言われる、吊り掛け駆動ではなく、車軸とモーターが完全に分離され、自在継ぎ手などで歯車をかみ合わせて車輪を回す方式の動力伝達方式を、実際に試験車を走らせてテストすることになり、1951年2月、小田急電鉄にて、「相武台実験」として知られる、「カルダン駆動」、「クイル駆動」の試験が、国鉄の戦災車モハ41071を譲受・改造した、東芝モハ1048号に、TT1A形カルダン駆動台車を始めとする、各種台車・電動機・駆動装置を装架して行われました。小田急の在来車にも、取り付け試験が行われたとする情報もありますが、デハ1501号(元帝都電鉄モハ208号)に、日立製作所製クイル駆動台車KH−1が付いている写真が残されている(※1)くらいで、具体的にどの車輌にどの方式のテストが行われたかについては、はっきりとした情報は得られていません。

 「相武台実験」で得られた結果をもとに、日本鉄道技術協会(JREA)という組織が、高速運転に関する試験をさらに行うこととなり、1953年3月中旬から4月上旬にかけて、国鉄電車を小田急電鉄に入線させ、台車を入れ換えながら試験を実行することになりました。試験の基地は、小田急経堂工場(当時。現在工場は相模大野に移転)とし、高速運転試験区間は、小田急線新松田−小田原間の直線を主体とした区間、とされたようです(※2)。
 小田急線が試験区間とされた理由としては、戦時中から東海道線の迂回路線として着目され、限界の拡大工事を経て、20メートル省電の入線経歴があったことと、当時の小田急は、台車や高速運転の研究に熱心であったこと、運輸省からの割り当て車モハ63(→1800系)が既に入線し、大形の国鉄電車が高速で走行することに支障がなかったためと思われます。
 この時、供試車輌となったのが、当時の国鉄モハ40044号と、モハ40030号でした。他に台車を試験的に供出するため、モハ70043号も入線しています。
 試験は1958年3月19日からモハ40044に、FS−201台車を装備して(既に三鷹電車区から装備して入線)、さらにKH−1台車や、モハ70043から取り外したDT−17を取り付けて試験を行い、DT−12台車の比較用と言われてきた(※2)モハ40030号にも、FS−201台車を付け替えて試験を行いました(※3)。
 このFS−201台車は、直角カルダン駆動の試作台車で、名鉄に1952年12月に2台納品され、彼の地でモ3501号に装着の上(※4)、試験が行われており、その後交換・装着した(?)モ3851は、少なくとも1954年頃まで同台車を装備していたようです(※5。FS−201台車については、もう少し詳しくあとのページで考察します)。一方KH−1形台車は、「相武台実験」の際から、小田急に「居残った」ものと思われ、デハ1501からデハ1802に交換・装着されていた(※6)もののようです。この台車はクイル駆動の軸梁式軸箱支持試作台車です。DT−17は、吊り掛け駆動の台車ですが、枕バネに2連のコイルバネを使用し、オイルダンパも装備した、ペデスタル式ながら近代的な台車です。
 と、以上の経緯で、わずかな試験時ではありますが、モハ40形が吊り掛け駆動ではなく、直角カルダン駆動やクイル駆動になった時期が存在するというわけです。
 後年この2輌のモハ40は、それぞれクモハ40044、クモハ40030となり、前者は新前橋電車区、後者は幕張電車区にあって、1970年代末から1980年代始め頃まで活躍しました。奇しくも両車とも、試験を行った小田急線からそう遠くない地で活躍を続けたのは、縁と言うものでしょうか…。

 前置きと解説が大変長くなりましたが、このうちクモハ40030号を、FS−201台車付きで模型化してみたのが今回の記事になります。もともとは、平妻のクモハ40形のペーパー製完成ボディを、ジャンクとして入手したのが始まりです。そのままごく普通に下回りをつけてもよかったのですが、多少は変わった車輌に出来ないかと考え、「カルダン駆動の旧形国電」というのはどうか、と思って始めた工事です。


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※1:深谷則雄・宮崎繁幹・八木邦英編、小田急電車回顧第2巻・pp5、多摩湖鉄道出版部、2006、東京。
※2:生方良雄記事、「鉄道ピクトリアル」第286号・pp56、電気車研究会、1973、東京。
※3:鉄道図書刊行会編、「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション」小田急電鉄1950〜60・pp14写真、鉄道図書刊行会、2002、東京。
※4:鈴木光雄記事、「鉄道ピクトリアル」第453号・pp68、電気車研究会、1985、東京。
※5:外山勝彦記事、「鉄道ピクトリアル」第726号・pp68、電気車研究会、2003、東京。
※6:鉄道図書刊行会編、「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション」小田急電鉄1950〜60・pp60、鉄道図書刊行会、2002、東京。