新小平駅の水害で、府中本町−西国分寺間折り返しに使用されるクハ103−620他。本来こちら側はクモハ103か、クハ103奇数車が先頭になるはずですが、豊田電車区への出入庫が、南武線経由となった関係で逆向き使用となっていました。また行先表示幕に「西国分寺」がないので、白表示のまま使用しています。運転士さんも少々手持ちぶさたの様子。シートのモケットが201系初期のようなもので、特別保全車のようですね。府中本町駅にて。1991年秋。
有名なロット違いユニットモハ103−105(右)とモハ102−445です。最後はここ武蔵野線で運用されていました。冷房化はAU−712で、常磐線から武蔵野線に転属してからです。このようなイレギュラーなユニットとなったのは、京浜東北線で使用されていたところ、事故で画面左方に連結されていたモハ102とクハ103を失い、残ったモハ103に当時製作中であったモハ102のユニット窓車を連結してカムバックさせたからです。しかしまあよく見ないとわからないですね。府中本町駅にて。1991年秋。
武蔵野線に転属してきていたモハ102−2046は、外ホロつきに改造された後も、ごらんのようになぜか片側の窓が埋められていない変形車でした。貫通ドアの戸袋のみが埋められています。このような改造は見たことがありません。相棒のモハ103−789も同じでした(パンタ上昇用の引きヒモが関連する?)。このグループは、赤羽線の10輌化の時新製された、「最終量産車」に属する車です。なにか関係があるのでしょうか。1998年2月8日。
最終量産車グループは、既に201系の量産が始まっていたので、クーラーのランボードなど細かい部分が201系と同じ仕様になってます。この車は当初から肩を斜めに落としたランボード、黒色Hゴム、塗り屋根、全周溶接構造、長寿命仕様です。ただし写真を見る限り、クーラーは他車と振り返られています。本来はステンレスキセのAU75E搭載のはずです。1998年2月8日。新秋津にて。モハ102−2046号。
武蔵野線では、晩年に至っても低運転台の車輌が多数健在でした。府中本町を発車して、一路南船橋に向かうクハ103−635他8輌編成。反対側の先頭はクモハ103でした。尾灯の直上の足かけが、車体の外よりに付け替えられているのが目立ちます。窓ガラスの支持方式は、黒色のHゴムです。AU712冷房改造ながら、更新車です。府中本町にて、2002年4月21日。
武蔵野線最若番車を含む編成
最後まで活躍した東日本のクハ103形としては、鶴見線のクハ103−125号とともに、最も若い番号に属するクハ103−141号(反対側の先頭はクハ103−140号)です。見た目の状態はそれほど悪くは無さそうですが…。府中本町駅にて、2004年4月26日撮影。
クハ103−140号の車内です。標準的な更新車に見えますね。基本的な構成は、色こそ変わっていますが、登場時から変わってないと言えそうです。
友人が103系の晩景を撮影してきました。
ひっそりと夜の府中本町駅を発車していく、武蔵野線103系。2005年秋。下関機関区氏撮影・提供。
夕闇迫る西浦和駅に進入してくる、武蔵野線103系E15編成。2005年秋。下関機関区氏撮影・提供。
京葉線内を走る、武蔵野線からの乗り入れ103系。E7編成のクハ103−140号。画像提供:ED 23-901氏。
同じ線路を今度は京葉線用の103系が走ってきました。京葉線用は10輌編成、武蔵野線用は8輌編成です。武蔵野線用は、速度とダイヤの関係で、103系としては強力編成の6M2Tに組まれていました。画像提供:ED 23-901氏。
京葉線は国鉄時代の末期に新規開業した線です。当初から103系が使用されましたが、京浜東北線からの転属車で、非冷房車も混じっていました。103系は走行時の騒音が大きく、沿線のマンションから苦情が寄せられるという一幕もありました。
ATS−P取り付け工事中のクモハ103−44。もと常磐線の車輌だったらしく、屋根上に「常磐無線アンテナ」の台が残っています(グロベンの前の二重丸形のもの)。前面窓をよく見ると、運用番号表示器を取付中であることがわかります(下に落ちている)。大宮工場内にて。1991年10月19日。