量産車の登場と国鉄時代

 試作車の登場から約2年、国鉄の車輌開発としてはやや時間がかかって、量産車が登場することになりました。1980年のことですが、それだけ見直し点が多かったということなのでしょう。中央快速線にまずは集中的に投入され、次いで総武線各駅停車にも投入されました。当初は6+4に分割可能な編成が作られましたが、のちには10輌貫通の編成も製作され、サハ201形が登場しています。また、一部の中央快速線用の分割編成は、総武線各駅停車に転用されたりもしています。
 中央快速線では、残っていた101系を駆逐し、冷房化率が低かった総武線各駅停車でも、非冷房の101系を大幅に減少させるなど、乗客には好評をもって迎えられました。更にその後は、関西地区の東海道・山陽線緩行にも進出。7輌編成での新製が行われています。
 しかし、201系も、製作費が高いという問題は克服しきれず、最後の量産車は、一般に「軽装車」と言われる、側窓やチョッパ装置、車体番号などを簡略化して、低コスト化した車輌となりました。そして増備終了から間を置くことなく、国鉄は分割民営化され、201系はJR東日本と、JR西日本に継承されるという流れをたどることになりました。そのような流れの中、武蔵野線にも6輌編成で新たに運用されたり、中央線列車区間への進出(PS24パンタ搭載車輌による、大月行きの設定)など、国鉄時代にも見逃せない動きがありました。
 そんな国鉄時代の201系を、古い写真から振り返ってみましょう。

国鉄時代201系の画像です

 201系の量産開始後、だいぶ数が増えてきた頃、初めて撮影できました。「特別快速」のヘッドマークも誇らしげなクハ200−17他10連。試作車に比べ、先頭車の車体が200ミリ短縮され、中間車と同じになって、運転室直後の戸袋窓は無くなっています。また他の戸袋窓も、ドアと同じ程度の高さに揃えられています。細かいところでは、方向幕が点対称配置とされ、基本的に各車とも向かって右側上に配置されています。前面には、ヘッドマーク掛けを兼ねた手すりが新設され、前面窓付近の寸法も少しずつ変わっています。屋根カーブも試作車とは異なり、台車も車体直結式空気バネではなくなりました。新宿駅にて、1981年頃。

国鉄時代201系の画像です

 立川を発車して、高尾に向かう201系快速。サイドはこの画像のほうがわかりやすいでしょうか。クハの先頭寄りベンチレータが、車体短縮の影響か、1つ少なくなっています。パンタグラフは、この時期の国鉄車輌によく見られる「ユニット外方」設置(モハユニットの外側寄りに付けること。モハ−モハの内側寄りに付けるのはユニット内方設置。103系などはこの方式)です。そのため手前がクハの奇数車、手前から2輌目がモハ201形、以下モハ200…と続きます。立川駅はこの時期ホームの各所工事中でした。まだモノレールなどは計画段階の時代です。クハ201−26、1982年撮影。

国鉄時代201系の画像です

 雨上がりの国立駅を、高速で通過する201系特別快速。この時代は、特別快速は1種類で、全て国分寺は通過でした。115系による、「新宿行き“スーパー特快”」(高尾から先、立川、三鷹、新宿のみ停車)も走っていた時代です。この頃の201系は、編成番号札を掲出していません。特快のヘッドマークは、板式のものを手すりに下げつつ、磁石で吸い付けるタイプです(101系、103系から継承)。1982年、国立駅。

国鉄時代201系の画像です

 下りの特別快速もやって来ました。まだホームが改築されておらず、全体に暗いですが、当時はこのようなホームが一般的でした。ヘッドマークの字が、上の画像のものより、少し細く見えます。同日、国立駅。

 中央快速線に続いて、総武・中央線各駅停車(黄色塗装)にも、投入が計画され、新製が始まりました。

新製直後の201系黄色の画像

 兵庫の川崎重工で新製され、試運転のために鷹取工場に立ち寄ったクハ201−36他10連。新製直後なのでぴかぴか。クーラーもAU75EまたはGであるのがわかります。この編成は、中野電車区に配置され、同所1番編成になりました(次ページに営業運転時の画像あり)。幕回し中なのか、正面は「山手線」、側面は「池袋」を表示しかかっています。1982年。「Fコレクション」より。鷹取駅。


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