特急「踊り子」号・国鉄時代

 1981年10月のダイヤ改正から走り始めた特急「踊り子」。新車の185系は、まさにスターでした。

デビュー当時の特急「踊り子」号の画像です

 いよいよ特急としてデビューした、185系電車特急「踊り子」。和服の少女が横向きという、斬新な塗装パターンの185系とは、微妙な組み合わせに見えたヘッドマークがなんとも…(笑)。横須賀線電車車内より撮影。1982年春頃。

※ヘッドマークと川端康成の小説「伊豆の踊子」について:
 「伊豆の踊子」という小説は、世界的に有名なノーベル文学賞作家川端康成の代表的作品ですが、もともと川端の私小説的なものとされています。つまり実際にあったことをおおむねトレースして書かれているということですが、事実川端が伊豆に旅し、半島を縦断するように、今で言う「温泉地巡り」をした体験に基づいて書かれています。川端はその途中で、旅芸人一行と仲良くなりますが、その中にいた一人の13歳の(満年齢)少女がどうにもいとおしくなってしまい、その感情や少女との交流、一行の人々との交流、そして下田での別れを短編にまとめたものが「伊豆の踊子」とされています。したがって、この特急「踊り子」号のヘッドマークは、その「薫ちゃん」13歳をイメージしたものであり(本名は小説なので当然異なるが、実在の人物がモデル)、お堅い国鉄(当時)としては、案外思い切ったデザインだったのかもしれません。

デビュー当時の特急「踊り子」号の画像です

 当時話題を呼んだ、3本ストライプの塗装。角度は60度だそうです。クハ185−15号。指定席車ですが、かなりな乗車率ですね。最近とは大違い…。戸袋窓のところにも座席があるあたり、通勤使用を考えた苦心の作です。
 また185系の最高速度は110キロで、性能的には「近郊形」と同じ下回りになっています。これは当時の近郊電車117系などと同じということです。この性能について、当時は賛否両論があったようですが、ダイヤが詰まった東海道線で、素早く加速し、そこそこそれなりの速度で走り続ける必要性から、やむを得なかったと言えるでしょう。本来特急形を通勤にも使うという考え方そのものが、かなり苦しいですが、車輌の効率的使用という面からは、それなりに評価されるべきかとも思えます。ドアが広いのも、デッキを広くしたいという、通勤時間帯を考慮した設計ですが、最近は乗り降りがしやすいと、割と好評なようです。
 車体は長寿命仕様で、腰板から下はステンレス製になっており、海辺を走ることもあり、徹底した腐食対策が採られています。

183系使用の「踊り子」号の画像です

 「踊り子」号の基地となった田町電車区には、従来から特急「あまぎ」用、および須崎へ出かける皇族随行員用として、183系1000番台が配置されていました。これは「あまぎ」時代に老朽化が激しくなった157系を置き換えるために、およそ3編成分程度配置されたものです。これらの183系1000番台は、いわゆる「前期形」の最終量産車ですが、1981年10月のダイヤ改正から1985年3月まで、この赤とクリームの「特急色」をまとったまま「踊り子」に活躍しました。横須賀線電車内より。1982年春頃。

183系による「踊り子」の画像

 編成は「あまぎ」時代と変わりませんでした。グリーン車が2輌連結されているのも、185系と同様です。183系もグリーンの斜めストライプにしていたら、面白かったのではと思いますが、やや貧弱な座席から、185系よりこの183系のほうが「特急らしい」という声も、あるにはありました。馬入川橋梁付近。1982年春。この画像は「Fコレクション」より。

183系使用の「踊り子」号の画像です

 183系1000番台車、クハ183−1023号の「踊り子」ヘッドマーク。もちろん、デザインはまったくいっしょです。これらの183系1000番台は、東北・上越新幹線の上野延伸に伴い、大宮−上野間の「新幹線リレー号」が廃止となり、余剰となった185系200番台が田町電車区に転属してくると、入れ替わりに「あずさ」増強用に長野へと転出していきました。伊豆急下田駅1番線にて、1982年。


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