伊豆半島地方は、幕末の開国の時代に始まる史跡としての価値、また、海と温泉という2つの観光要素を併せ持つことから、半島全体が著名観光地としての価値を持つと言えるでしょう。
国鉄は、長く伊東まで列車を走らせ、また中伊豆方面へは、駿豆鉄道線(その後の伊豆箱根鉄道駿豆本線)を介して、修善寺まで列車を運転していました。しかし、伊豆半島南部は、鉄道が通っていないために、気軽な観光には難がある状態が続き、伊豆半島南端の下田までは、伊東からバスを利用して、悪路を約2時間半も走ってようやく到着するという有様でした。また西伊豆に至っては、国道の整備も遅れており、沼津港から船を利用するというのが当たり前でした。それらの事情と、高度経済成長期に入ってのレジャー志向を受け、1960年代近くには、「伊豆下田電気鉄道」伊東−下田間の電気鉄道が計画され、それは1961年、「伊豆急行」として開通。伊豆半島南端の下田まで、ようやく電車が走れるようになったのでした。
この伊豆急行線は、当初より国鉄と相互乗り入れをすることが、免許条件となっていたため、伊豆急行は熱海まで自社線の電車を乗り入れ、また国鉄は伊東線の普通電車や、東京からの急行電車の乗り入れを開始しました。
その後特急「あまぎ」号の設定、急行電車の「伊豆」号への統一を経て、東京−伊豆間直通の列車が多数走る体制が長く続いていましたが、国鉄は増収策もあり、急行「伊豆」の廃止と特急への格上げ、全体のスピードアップをかかげて、1981年秋のダイヤ改正より、「新しい特急」として新車185系電車を主体に使用する列車を設定し、従来の特急「あまぎ」号も、包括してしまう計画となりました。
この「新しい特急」は、新車を主体に使用することもあって、列車名を公募することとなり、運転区間を示すもの、他の列車とダブりがないこと、わかりやすく覚えやすいこと、などの条件から、1503通もの支持があった「踊り子」が、その列車名称として採用されたのでした。ちなみに当時の雑誌(「鉄道ジャーナル」通巻173号132ページ)によりますと、比較的支持が多かった名称として、「いでゆ」、「くろふね」、「伊豆」、「あまぎ」などがあり、中には「さがみ」(小田急と重複)、「なぎさ」(房総方面の臨時列車と重複)、「しおかぜ」(山陰線の特急と重複)、「しらはま」(南紀地方の急行列車と重複)などもあり、さらには「ブルースカイ」(運転区間を示してないし…)、「唐人お吉」(人名だし…)、「ペリー」(いまさらだし…)、「貫一お宮」(修善寺・下田と関係ないし…)というようなものもあったと言われています。これまた余談ですが、筆者は「いろうざき」で応募しました。
さて、そんな期待を背負って登場した「踊り子」ですが、新車185系は、朝夕の通勤列車(普通列車や快速)にも使用するという、今で言う「通勤ライナー」的な使い方を想定し、実際そのように運用されるため、車内は転換クロスシート(背ずりを反対側に押しやると、後ろ向きにも前向きにも座れるタイプのイス)で、座席の前後間隔も、座席本体も、関西に同時期登場した新快速用電車117系と同じになっており、窓もやや小さめなど、「特急」としてはやや内装が貧弱な感なきにしもあらずだったのですが、当時の国鉄としては非常に思い切った、白に緑の帯を斜めに通すという、極めて斬新な塗装が話題を呼び、観光特急として一躍人気になったものでした。
なお、車輌には、それまで「あまぎ」として活躍してきた、183系1000番台電車も3往復分残り、こちらは赤とクリームの伝統的特急色のまま活躍しましたので、そちらのほうが「特急らしい」という意見もあるにはありました。
前置きが長くなりましたが、それでは写真で特急「踊り子」号の変遷を見ていきましょう。
「踊り子」前史時代 NEW! |
国鉄時代 |
JR時代 |
特異車サロ185−11号 |
185系「踊り子」走行音1※1 |
185系「踊り子」走行音2(wav形式・約3MB)※2 |
185系「踊り子」走行音2(mp3形式・約17MB)※2・こちらの方が音質良好です。 |
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※モハ184−27号で収録。mp3形式、約5.5MB。2008年5月11日収録。伊豆急行線富戸−城ヶ崎海岸間。禁転載。
※2:モハ184−6号で収録。2009年9月4日収録。伊豆急行線伊豆高原−伊豆熱川間。9分。禁転載。
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