「踊り子」前史

 特急「踊り子」が登場する前、つまり特急「あまぎ」と、急行「伊豆」の時代も振り返っておきたいと思います。この時代には、まだ私自身子どもでしたので、自前で撮影した写真はわずかです。そのためほぼ全て著作権ごと購入した写真からの画像となりますが、過去には戻れませんから、やむを得ません。

 伊豆急行の開通後、当初使われていたのは、伊豆急側は自社の100系電車。これは線内急行・快速には使われましたが、有料の優等列車には使われませんでした(ごくわずかな臨時列車で例外がある模様)。自社車輌による特急「リゾート踊り子」などが走るのは、ずっと後年のことで、2100系が登場して増備を繰り返してからです。
 一方、乗り入れる国鉄側の車輌は、普通列車用には旧形国電で、伊東線用に配置されていたものが使われました。準急列車(当時)には153系や、臨時には157系を充てましたが、列車の運転としては、伊東線伊東まで運転されていた列車の延長という形でした。特急形並み装備の157系を、臨時とは言え充当するあたり、伊東から先東伊豆の観光開発の進展に寄せる期待は、並々ならぬものがあったようにも思えます。特に伊豆急開通直前に設定された「湘南日光」号は、日光と伊豆を結ぶ珍しい運転形態であり、シーズンによっては東京駅で打ち切って、別列車として運転するという、模索的な動きも見られました。

湘南伊豆号の画像です

 画像は伊豆急開通後、1963年より投入された165系による準急「湘南日光」。157系からはグレードダウンですね。小田原駅にて。1965年頃?。ENコレクションより。画像左上にうっすら見えるのは小田原城。この時代の165系は、まだ冷房化されておらず、ジャンパー栓も線数が少ないです。後の「常磐伊豆」号の布石とも言える列車でしょう。

 しかし、新幹線開業後は、急行「常磐伊豆」号(常磐線からの直通運転で451系/453系電車を使用)の設定など、運転もいっそう多様化し、臨時を交えてさまざまな列車・車輌が行き交うようになりました。国鉄側の普通列車用車輌も、旧形国電から111系または113系に置き換えられ、伊豆急車に合わせるグレードアップも行われています。
 さらには、準急の急行格上げ、列車名の整理を経て、急行「伊豆」、「おくいず」が誕生。153系の他に、臨時特急「ひびき」の廃止により転用・カムバックした157系が、急行「伊豆」に投入されるなど、変化の激しい時代であったとも言えます。

157系による急行「伊豆」号の画像

 雨模様の小田原駅に入線する、下り急行「伊豆」。157系による13輌編成で、画像手前が伊豆急下田行き7連、奥側が修善寺行き6連。いずれにも1等車が2輌ずつ連結されるという豪華列車でした。小田原駅上り方。右側の腕木信号機は、伊豆箱根鉄道大雄山線のもの。左奥には新幹線の高架が見えます。1965年頃?。ENコレクションより。

157系による急行「伊豆」号の画像

 同じ列車の後追い撮影ですが、こちらの先頭車は、運転台窓のHゴム色が黒になっていて、多少いかつい感じに見えます。こちら側の編成が修善寺行き編成です。右側ホームで列車を待つ人々のコート姿から、冬の撮影のようです。氷雨が降っているのでしょうか。1965年頃?。ENコレクションより。

 1969年には、153系と157系で内装の格差が大きいこともあり、速達性も重視して、157系を使用した特急「あまぎ」が設定され、ついに伊東線−伊豆急行線にも特急が走ることになりました。なお、「あまぎ」には修善寺行きの設定はありませんでした。

特急「あまぎ」として走る157系の画像

 画像は、特急「あまぎ」として走る157系。様子からして投入当初と思われます。編成は、画像手前からクモハ157−モハ156−サロ157−サロ157−サハ157−モハ156−クモハ157+モハ156−クモハ157の9輌編成です。157系には、食堂車が無く、モハ156形に売店が設けられているという、当時の特急としては少々物足りない系列ではあったものの、短距離の特急である「あまぎ」にはぴったりで、急行時代から続く2輌のグリーン車とともに、デラックスな印象を乗客や沿線の人々に与えたようです。そのため急行「伊豆」時代は、いわゆる「乗り得列車」だったのではと思われます。
 大形のヘッドマークが目立ちますね。このマークは、ボンネットタイプの特急と共通のもので、実際485系などにも取り付け可能です(イベント以外で、そのようなシーンはありませんでしたが)。Fコレクションより。

特急「あまぎ」として走る183系の画像

 157系による「あまぎ」は、利用率も良かったようですが、クモハ157形が中間に入ると、隣接車との行き来が出来ないため、検札や車内販売に困るという事情、また157系自体が下降窓を採用しており、車体内部の腐食対策が十分でなく、海岸線を走ることもあり、老朽化が急速に進行、一部の車輌では、窓下部分外板に腐食で穴が開いてしまうほど、深刻な事態となったため、183系1000番台を必要輌数新製し、1976年春に置き換えが行われました。
 183系1000番台は、上越線特急「とき」号の、雪害による故障対策に新製が開始されていたもので、183系0番台の改良車です。これを10連に組み、この時の編成が、その後の185系「踊り子」にも引き継がれていますが、付属編成というものは無く、ここでも修善寺行きの設定は行われていません。画像は、新製投入当初の183系1000番台による「あまぎ」。川奈−富戸間にて、1976年初春。Fコレクションより。

 伊豆半島への優等列車は、基本的に特急「あまぎ」、急行「伊豆」という体勢が、このあとしばらく続くわけですが、目立った変化としては、特急「あまぎ」について、1978年10月のダイヤ改正(いわゆる53−10・ゴーサントウ改正)から、正面の字幕が絵入りのヘッドマークに変わるという変化がありました。

絵入りヘッドマークの183系あまぎ号の画像

 その後登場することになる、185系にも、このマークは入れられていました(ごくわずかな期間、実際に185系による「あまぎ」が運転されたという説もありますが、詳細不明です)。天城山と空をイメージしたイラストのようですが、前の草はまさかの「わさび」。伊豆ではわさび栽培も盛んですね。伊東線内?。時期不明、Fコレクションより。

 一方、急行列車は153系が、名称としては「伊豆」に一本化されて使われていました。初期の新性能電車なので、そろそろ老朽化が問題になる時期だったと思われます。

153系急行「伊豆」付属編成の画像

 写真は小田原駅に待機する、153系による急行「伊豆」の付属編成です。付属編成は修善寺方面行きとして運転されていましたが、三島から伊豆箱根鉄道線に乗り入れる運転です。急行「伊豆」号は、伊豆急下田行きとともに、末端区間がいずれも私鉄に乗り入れという、珍しい運行形態になっていました。これはその後の「踊り子」にも引き継がれています。また、153系電車は、100Kwと比較的非力なモーターを付けていましたが、それでいて付属編成は2M3Tと、付随車のほうが多い編成となっていて、熱海から先は性能的に少々苦しい運転ではなかったかとも思われます。しかし、さしたる問題も無く走っていたようです。付属編成の2M3T運転は、185系「踊り子」になっても続き、急行「富士川」の一時期とともに珍しい例と思われます。伊豆箱根鉄道線の変電所容量などに支障があるためでしょうか。画像右は小田急の2600系。1978年5月、すぎたま撮影。

 153系の老朽化は、やがて深刻なものになっていき、そろそろ後継車をという検討が国鉄部内で始まったのは、1980年頃のようです。しかし当時は、当面153系「伊豆」を急行のまま置き換える新車、という構想であり、運転部門としてその線で決まりかけていたところ、営業部門から急行の特急格上げの「要請」があって、特急と一部列車では通勤普通列車への投入という、当時の国鉄としては珍しい、「マルチパーパス」な電車へと、基本設計の変更が行われました。
 これにより、急行「伊豆」は、特急へと発展的解消を遂げることになる基本路線が確定したのでした。

 そしていよいよ、1981年に入り、1月頃から続々と落成し始めた新形特急車185系は、ダイヤ改正で一斉に取り替えるのではなく、当初急行「伊豆」に投入。老朽化が進んでいた153系を置き換えながら運用を始めるという、意外な展開になりました。そのため、特急形の185系と、急行形の153系が連結運転するという、珍しい光景も見られました。連結にあたっては、制御器に不整合が起こるため、当面対策を施したそうです(落成当初のクハ185−100番台の正面右下に、ジャンパー栓が3本あるのもそのため)。また、新車に当たった人はラッキー、しかし153系だとションボリという事態も…。

急行「伊豆」として走行する185系の画像

 浜松町駅を通過する185系による急行「伊豆」。ヘッドマークにも、急行「伊豆」があらかじめ用意されていました。新製当時なので、クハ185−100番台(手前)の右下ジャンパーは3本あります。この後夏を越して、秋のダイヤ改正から特急「踊り子」としての活躍が始まるわけです。1981年4月頃、浜松町、Fコレクションより。

回送される185系の画像

 当時有名な撮影地であった根府川橋梁を行く、「踊り子」へ使用開始直前の185系。急行「伊豆」へ充当のため熱海へ回送中。この後のダイヤ改正で、いよいよ特急「踊り子」として、長い長い活躍を開始することになるのでした。1981年9月27日、Fコレクションより。


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