小田急2400系・1983年から1985年まで

 2200系列の廃車が始まる頃で、そろそろ2400系にも後継車の話が出てきた頃です。

 クハ2478号冷房車の画像です

 2400系にも1輌のみですが、冷房車が存在しました。1968年、試作冷房車として改造された、クハ2478号がそれです。この車輌は、通勤車の冷房化をどのように進めるかということについて、基礎的データを得る目的で、三菱CU−12形クーラーを5台取り付けられたものですが、試験終了後も冷房は撤去されず、そのまま中形車唯一の冷房車として活躍を続けました。画像は上り各停経堂行きとして、4輌で走るクハ2478他。この頃はまだ新宿方でも、4輌編成の各停運用がありました。またこの写真では方向幕と種別幕が自動化されておらず、白幕になっています。この直後に自動化されたものと思われ、その意味でもこの画像は貴重かもしれません。画像提供:潮史晶氏。1983年頃。玉川学園前−鶴川間にて撮影。

デハ2400号の画像です

 デハ2400号。左のクハは2450号です。2400系は、1編成内に偶数車と奇数車を配置することで、番号の増大を押さえた方式の付番です。これは例えばデハ2200系列や、戦前の形式1200系の改造後などにも当てはまり、上り向き奇数車、下り向き偶数車などと編成されていました。ところが2400系の場合、想定した以上に量産することになってしまい、デハ2401から番号を振っていったものの、24編成目でデハ2448まで来てしまいました。このまま第25編成を漫然と付番しますと、クハ2499−デハ2449−デハ2450−クハ2500となってしまい、電動車は十位が00〜、制御車・付随車は十位が50〜という原則と矛盾が生じます。さらに第26編成をそのまま付番したとすると、クハ2501−デハ2451−デハ2452−クハ2502と、デハは第1編成のクハと重複番号になってしまうばかりか、クハも「クハなのにデハのような番号」になってしまうのです。
 そこで小田急は、第25編成について、クハ2499−デハ2449−デハ2400−クハ2450と、いったん形式と同じ数字を与え、第26編成は、2500番台に飛んで、クハ2551−デハ2501−デハ2502−クハ2552としました。そこで生まれたのが、上の画像に写っているデハ2400号、ということになります。小田急で、形式と番号が一致してしまっているのは、この車(と左のクハ)のみです。その後の系列では、デハ9000形9000号などというのはありません。これは2400系の大量産を物語るエピソードになりますが、ここまで増備すると、最初からわかっていれば、クハ2450−デハ2400−デハ2500−クハ2550としていれば、問題なかったのでしょうね。
 あるいは、このデハ2400号と、左のクハ2450号は、それぞれデハ2500号とクハ2550号でもよかったような気はします。なぜいったん2400と2450に戻したのか、今となっては不明ですね。
 余談ですが、この種の番号オーバーフローの問題は、各社とも苦慮する場合があるようで、東武鉄道でも8000系を大量産した結果、モハ81101などという下2桁が3桁になったしまった例や、東急8000系のデハ8700形と8800形のように、8799の次を0700などとした例、国鉄でもモハ102−899の次を、試作車や他の番台との重複を避けてモハ102−2001〜とした例などがあります。
 画像は玉川学園前駅、1983年頃。

クハ2460号の画像です

 2400系唯一の事故復旧車クハ2460号。和泉多摩川2号踏切(現在はもちろん無くなっています)で、ダンプカーと衝突し、本車は多摩川の河原に転落、隣のデハ2410は宙づりとなり、連結器を切断し、トレーラーで日本車輌東京支店(当時埼玉県蕨市にあった)まで運んで復旧工事をしたという経歴の持ち主です。さらに左奥のデハ2409号とクハ2459号は、経堂から派遣された救援車キハ5000系2輌で、逆線走行回送により経堂まで運ばれたそうです。
 本車は転落時下になった写真と反対側側面に、ゆがみを直した跡らしいものがあり、事故の規模の大きさを物語っておりました。この時代は、よく多摩線の4連運用に、2400系は使われていました。日中はそればかりでしたので、ほとんど冷房車が走らないという嘆きの声も。1984年、新百合ヶ丘駅4番線ホームにて。

クハ2459号の画像です

 朝の準急は、当時ホームの短かった経堂駅通過で運転されていたので、8輌または10輌編成でした。当然その返しも同じ編成になります。下り相模大野行き準急に充当される2400系。前は5200系のようですが、今から思えば、3ドア車と4ドア車の併結運転ですね。玉川学園前駅。1984年。クハ2459他。上り方先頭車の台枠上足かけが、左側のみ外側にずれて付いているのは、この足かけのすぐ右に、かつて3連ジャンパー連結器があったためです。3連ジャンパーは自動解結装置の整備とともに撤去されました。

クハ2456他の下り8連各停の画像

 朝の上り急行や、準急に充当した8輌編成を、新宿から向ヶ丘遊園まで回送し、向ヶ丘遊園から客扱いする各停というのがありました。これは和泉多摩川から南新宿までの各駅停車のみ停車の駅が、8輌編成対応になっていなかったためです。今の「区間準急」のような、不思議な走り方の運転と言えるでしょうか。意味は異なりますが…。それにしてもホームとの段差が大きいですね。当時はバリアフリーなどという言葉そのものがありませんでしたから、この程度の段差は普通に存在しました。既に「本厚木」の行先を出して、向ヶ丘遊園に回送されてきたクハ2456号他8輌。この運用は、2400×2編成という運用でした。1985年冬、向ヶ丘遊園駅。

経堂駅留置線のクハ2480号他の画像

 経堂駅の西側・山側にあった留置線で休む2400系と、本線4番線で待避する8000系。8000系での2400系置き換えは少しずつ進行しはじめていた時期と思います。クハ2480号他。2400系は、試験的につけた以外、スカートは設けられませんでしたが、前面下に黒く塗装された鉄板を取り付けていました。踏切事故から配管などを守るためだったのでしょうか。1985年夏。


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