各車輌とも、戦前・戦後・廃止直前まで、大きな改造や、形態の変化は無く、ATS取り付けに伴う車上子取り付け(EB1051のぞく)、列車無線取り付け(同)、尾灯の角形2灯化、パンタグラフの電車共通化程度が目立つくらいです。特にED1031号は、トフ104号とともに1990年代まで活躍し、小田急最後の電気機関車となったことで知られています。
ところが、ここで重大な謎が発見されました。「小田急電車回顧 別巻」(多摩湖鉄道出版部発行)という本の、85ページによりますと、「1012号は、元の1011号である」と書かれています。これが正しいとすると、どの時点かで、1011号と1012号の車号がすり替わっていることになります。こんなことがあるものでしょうか?。
実際のところ、国鉄などでは例が散見されます。救援車によく見られたのですが、改造や検査のために入場させた車輌より、廃車で入場してきた車輌の方が、状態が良かった等の理由で、書類上の車と、実際の車がすり替わる例です。例えばオエ70 38号は、もともとスニ73 21の改造でしたが、後にマニ60 77に振り替えられ、番号はそのままで車輌全体がすり替わっています。
小田急電鉄において、ED1011←→ED1012の車号振り替えが行われたとすると、それはいったいいつの時点か?、理由は?、など気になるものですよね。それを雑誌などに掲載された写真を元にある程度推定してみます。
識別のポイントとなるのは、
●後年ED1012を名乗り、デキ1010形としては長く在籍した車輌の、廃車時新宿方台枠は、衝突事故の後遺症で「へ」の字形に屈曲している(理由の解説は、「小田急電車回顧 別巻」の134ページによる)。
●1959年までに、いかなる理由か、2輌とも方向転換している(パンタが小田原寄りから新宿寄りに)。
…ということでしょうか。
また別な謎としては、小田急の電気機関車は、EB1051が朱色であったのをのぞくと、一貫して茶色に塗られていました。1960年頃から、車体すそに黄色い帯が通されるようになった程度の変化はありますが、1978年頃は、一度黒色に黄色帯塗装になっていたと思われる時期があり、この理由も定かではありません。
…というように、長く活躍した電気機関車ですので、いくつかの謎がある不思議な車輌と言えます。これらの謎について、資料と、私が撮影した写真(特記以外)から、出来る限りの解明を試みます。
戦前の1形2号の画像が入手出来ましたので、お目にかけます。場所は下北沢−世田谷中原(現:世田谷代田)間です。当初よくわからなかったのですが、「RM
Library235号『帝都電鉄 (上)』」により明確になりました。後方の橋は、当時の帝都電鉄(現:井の頭線)の橋梁です。斜めに向いた構造物は、小田原急行鉄道の下北沢駅と、帝都電鉄の下北沢駅をつなぐ連絡橋です。しかし、帝都線の架線がまだ張られていないため、撮影時期は1933年の春頃ではないかと思われます(「RM
Library235号」では、1933年2月撮影の写真に、帝都電鉄の橋脚に足場が組まれているのが確認でき、この画像にはそれが見られないことから、この写真の撮影は、それより後で、さらに帝都線の架線が張ってないため開通前と思われるため)。列車の向きからすると、この列車は下り列車です。東北沢駅のホッパーで、砂利を下ろした帰りでしょう。そのためトフが機関車の直後に連結されています。東北沢の積み卸し線で入れ換えは出来る構造でしたが、手狭ではありましたから、経堂までトフを後ろに付け直さずに運転していたのかもしません。
ところが問題なのは、この写真で見ると、1形機関車のパンタは、通説やいくらかの発表されている写真と異なり、「新宿寄り」に向いていることです。戦後のED1010は、当初パンタは小田原寄り、1959年までに新宿寄りになるように、機関車ごと方向転換されています。しかし、この画像を見る限りでは、戦前のパンタの向きは新宿寄り、小田原寄り両方があったようだとしか、言いようがありません。このことは新たな発見でしょう。
この時代の1形機関車は、前の端バリに何も付いておらず、すっきりさっぱりしています。ヘッドライトのレンズが特殊で、なんだか出っ張っているのが気になります。砲金製のプレート「2」が正面と側面に付いていますが、これは戦時中の東急への合併で、金属供出として失われたものと思われます。
大きめの社紋が、側面に付いているのが見えますが、これもその後同様に失われています。全体の形態は、廃車時までほとんど変化が無く、パンタの形式が変わったのと、ATS取り付け、窓枠の白塗装などが目立つ程度であるのがわかります。台枠の損傷はこの時点では見られません。この2号機が正しくED1012になったのだとすると、事故による台枠損傷はこの撮影よりあとのことであると考えられます。1933年頃。Fコレクションより。西尾克三郎氏撮影。著作権切れ。
直接機関車と関係ない話になりますが、そのほかこの写真から読み取れる特徴的なこととして、レールが短尺レール(長さおおよそ10メートルくらい)であり、継ぎ目板が長く、6本のボルトで止められていること、およびレール継ぎ目が「掛け接ぎ」(枕木2丁の間で継ぐ方法)になっていることでしょう。
この継ぎ目板の6本ボルトは、小田原急行鉄道が開通時に用意した、アメリカ・テネシー製鋼製レールに特徴的なもので、戦後もそこそこ残っていたようです。特にホームの柱やガードレールなどに転用されたものは、2本を溶接して長くし、さらに一般的な4本ボルトの継ぎ目板でつなげられるように、穴が開け直してありました。下北沢駅が地下化される時、記念品としてホームの柱になっていたものを、小田急「TRAINS」で販売したこともありましたが、今でも地上区間の駅や沿線の柵などとして残存しているものがあり、参宮橋駅上りホームのやや下り方にあるホーム柵や、向ヶ丘遊園駅跨線橋などで見ることが出来ます。太さは37キロレールです。
中学生時代の撮影なので、拙い写真ですが、どうでしょう?。床下のエアタンクが茶色味を帯びていますが、それとは明らかに違う黒に見えます。1978年5月。小田原駅にて。また、この画像では、画像中央部あたり、「OER」のマークのあるすぐ右下に、台枠が折れて継いだようなあとが見えます。これが衝突事故の跡でしょう。確かに台枠が変形(前下りに折れ曲がっている)しているのがわかりますね。
列車全体はこんな感じ。画像で見る限り、ED1012+国鉄ワム70000形+ワム80000形前期形×2+小田急トフ100形という編成であるのがわかりますが、隣の黒いワム70000形と、基本的に同じ色に見えます。
これは1984年3月19日に、開業時の旅客車輌モハ1形10号が復元され、新百合ヶ丘駅4番ホームで展示された際、大野工場から新百合ヶ丘まで同車をけん引してきたED1012の写真です。明らかに普通の茶色(国鉄のぶどう2号を少し明るくしたような色)に、黄色帯となっているのがわかります。
これらにより、少なくとも1978年頃は、黒に黄色帯であったと考えられます。当時は黒い貨車が多かったので、それに合わせたのでしょうか?。ただ他のED1041やED1031が黒に塗装されていた記憶は無いので、試験的なものだったのかもしれません。
同時代と思われる「黒塗装」のED1012の画像は、「ヤマケイ私鉄ハンドブック1小田急」の48ページで見ることが出来ます。やはり隣に連結されている国鉄の黒い貨車と同じ色に見えます。
2軸無蓋緩急車というのは、この時点で既に相鉄トフ400形と、小田急のみになっていたと記憶しています。屋根上にトルペード形ベンチレータがぽつんと載っていますが、本車の作られた1925年頃には、既に新規の採用例が無い時代だったはずなので、もしかすると木製客車用の部品流用なのかもしれませんね。それにしてもひどく狭い車掌室で、車内灯も無く、わずかなシートの前に手ブレーキがどーんと鎮座するという車内だったようです。これに乗務するのは、特に1970年代以降は、辛いものがあったように思えます。1978年5月。小田原駅にて。