なぜこのようなことが起きたのか…。それは戦争によるものと考えられます。戦時中労働力は低下し、ばりばり働いているべき人々は、みな兵隊にとられていきました。そのため車輌メーカーや、鉄道省(当時)の工場では、職人が足りず「仕掛かり」のまま放置せざるを得ない客車が多数あったそうです。
戦時中も増備途中であったオハ35形は、1942年を最後に出場車がありませんでしたが、終戦後1945年(昭和20年)中に系列のオロ40形3輌が出場したので、おそらくは仕掛かり車輌があり、逐次仕掛かり車輌を完成させていったのではないかと思われます。戦後丸屋根のオハ35がしばらく作られた(700号から準切妻に変更。582〜693は昭和21年出場。この中にはリベット車体のものもあり、少なくない仕掛かり車輌が混じっているものと考えられる)のは、そうした事情があったのでしょう。
この銘板がオハ35のものと推定する材料のもう一つは、青15号塗りであることでしょうか。この角度の写真ではよく見えないのですが、青の下には茶色が残っていますので、旧形客車であることは確実だと思うのですが…。
★その後昭和21年銘の同じメーカー・様式の銘板が入手できましたので、その画像をご紹介します。やはり上の銘板と比べて、文字に乱れはなく、「1」の字も他の文字同様の太さなので、上の銘板は何らかの加工がされたことは、間違いないと思われます。
日本国有鉄道の銘板類と、昭和9年の台車銘板です(少し小さいの)。左上はおそらく103系の最終増備車(モハ103−792,793、モハ102−2049,2050)のもの思われる、表裏ともキズや塗装の痛みなどが全くないもの。右上はキハ35系と思われる朱色のもの。左下は103系3000番台のではないかとも思われる1キロ以上ある分厚いものです。特にこれは下地にブルーが少し残っているので、仙石線のモハ72970もしくはクハ79600時代、もっとさかのぼれば1953年の製造当時のものでしょう。文字も太くてずんぐりしています。右下は昭和9年銘の川崎車輌の台車銘板といわれるものです。これは部品の競売で落札しました(最近のネットオークションではありません)。中央下はとび色?の貨車のものでしょうか。朱色のものは部品屋、他はJR工場のイベントで購入。
川崎車輌台車銘板のアップです。ねじが皿ねじを使うようになっているのが目を引きます。「輌」の字が「輛」のようです。また年号が上にきて、「製造」の文字が下というのも、普通の銘板と異なるところです。台車にも当時はこんな立派な銘板を付けていたようですね。機関車用でもなさそうなので(製番もないし)、電車のボールドウィン形とかのでしょうか。
これが「昭和16年」銘と、「昭和16年度」銘の銘板です。まったく同じ様式に見えますが、年の表示だけが、「年」と「年度」の2通りあることがわかります。なぜこの時期だけ、「年」と「年度」の両方あるのかわかりません。またこの年と年度表示とが混在している年は、昭和13年も同様であることが確認されており、昭和13年も「年」と「年度」の両方あります。
戦前から戦中にかかるこの時期は、すでに日支事変が勃発していた時期に当たり、その辺と関わりが、もしかするとあるのかもしれませんが、そうだとすると他社に無いのはなぜか?など、不明な点が多いです。
上側の銘板は、かなり風化が進んでおり、当時の粗悪な素材を思わせますが、左右の寸法もわずかながら小さく、文字列の配置具合なども、微妙に下の物とは異なるので、新たに型が起こされたことがわかります。
新幹線の銘板です。あの200q/h以上で走る新幹線電車も、普通の電車と同様な銘板を付けています。さすがにあの速度なので、塗装の傷みは激しいようですが。
上側は東北・上越新幹線200系のアルミ銘板です。200系は車体がアルミ製なので、銘板もアルミ製。下側はおなじみの東海道新幹線0系の銘板です。奇しくも同じ「川崎重工」のもので、様式に変化はありません。本来塗色も上はクリーム10号、下は白3号のはずですが、見た目にはほとんど差がないようにも見えますね。
鋼体化改造車の車内銘板です。上の「宇都宮車両」は、「車輌」の文字が「両」になっているのが、比較的珍しいような気がします。また「都」の文字も独特の字体ですね。下の「輸送機工業」は、のちに貨車を中心に製作した会社ですが、鋼体化改造にも加わっていたようです。これはマニ60 2024の裏書きがあります。
鋼体化改造、60系客車の車内銘板。本品はオハフ61 282の裏書きがあります。経歴からしても、間違いないと思われます。エッチング製ですが、手書きふうの文字に見えますね。
同じく鋼体化改造の銘板。これは国鉄旭川工場のものです。妻面にリブがある独特の造りで、多少名の知られた旭川工場ですが、文字はしっかりしているものの、なんとなく真ん中に集まった文字列が、ちょこちょこした感じにも見えますね。
本品は近鉄のサ8725号のものです。下の営団1500形のものと同様なデザインですが、文字色がブルーメタリックで異なります。
東急車輌の車内銘板ですが、右下「大阪」となっているものは、比較的数が少ないです。帝国車輌工業を吸収合併して東急車輛製造大阪製作所として再出発した時の銘板で、その後鉄道車輌の製造は徐々に廃止したので、残存数が少ないということのようです。本品は大阪市営地下鉄のものではないかと思いますが、わかりません。
営団地下鉄1500形の近畿車輌の銘板(上)と、スハネ16 2111の裏書きのある、国鉄幡生工場の改造銘板です。近畿車輌のものは、独特な形状ですが、国鉄幡生工場のものは、外銘板と同じような形態で、あまり特色はありません。
名古屋地区で解体されたタキ1900形の銘板(上2枚)と、新潟鉄工所の古い銘板(下)です。タキ1900のほうは、再塗装されています。また車籍日本国有鉄道の銘板には、リベットが残っています。一方新潟鉄工のほうは、昭和16年銘とかなり古く、腐食もそれなりに進んでいます。「所」の字や、「鐵」の字、さらに「潟」の字に特色があるほか、わざわざ「株式會社」と入れているのも珍しいと思います。
103系と、113系、115系電車の各社・各色の銘板です。左上は常磐線色のエメラルドグリーンの「日本車輌」昭和52年銘です。Mマーク入りで、比較的最近のものです。その右の青15号色のものは、113系のもので、同じ「日本車輌」ながら、「蕨」の文字入りです。日本車輌蕨は、昭和44年から46年途中までしか存在しない比較的珍しい銘板です。昭和46年半ばには、工場閉鎖となり、豊川工場に集約されたので、昭和46年銘は特に珍しいのかもしれません。
2段目で近畿車輌の昭和46年銘(左)は、103系のエメラルドグリーンのもの、右側の「帝国車輌」は103系のブルーのものです。1968年(昭和43年)には、東急車輌に合併したので、それ以降は名称が消滅しています。
3段目は「日本車輌」昭和54年銘の普通のものと、近畿車輌の昭和52年銘のもので、いずれも103系のイエローとオレンジです。
4段目は左側が「アニメドリームトレイン1999」で使用された、茶色塗り替え103系のもので「東急車輌」昭和54年銘のものです。これは元が黄色の車輌でしたので、ネジあと(両端の穴)に元の色が残っているのが見えます。茶色の103系はモハ72970のようだったそうです。一方右側の「東京
汽車會社」昭和41年銘のものは、115系電車のものです。湘南色の緑2号色。汽車會社は東京と大阪に工場があり、大阪は1972年(昭和47年)に川崎重工と合併したのち、1975年(昭和50年)には鉄道車輌製造を廃止しています。東京のほうは、1968年(昭和43年)に工場が廃止になっていますので、この銘板は末期のものと言えそうです。
小田急電鉄主催のイベントで、1992年頃から廃車になったロマンスカーSE車3000系の台車銘板が売られていましたので、買ってみました。
SE車は、1957年(昭和32年)から製作された、超軽量高速特急電車で、当時国鉄線上で高速度試験に臨み、145km/hの狭軌鉄道世界最高速度(当時)をマークし、その後の電車特急・新幹線電車全盛期の始祖となったことで、あまりにも有名です。第1回ブルーリボン賞受賞。そのスピードだけでなく、鉄道車輌として最初にシールドビーム前照灯を採用、オルゴールによる補助警笛の採用、ディスクブレーキを初めて採用、高速電車としては初めて本格的に連接車とするなど、新機軸にもあふれており、当時の鉄道界に衝撃を与えた車輌でした。
さて銘板は、その台車のもので、KD17,18という近畿車輛製のものです。着けていた車輌番号は残念ながらわかりませんでしたが、上の「昭和32年銘」のものは、3041編成か、または3051編成のもの、下の「昭和34年銘」のものは、3031編成もしくは3051編成の一部のものではないかと思います。