2005年10月7日号

今さらながらの「言葉の暴力」<2>

  今さらながらの「言葉の暴力」<2>
 

前号の続き)
 それによると、後期高齢者とは、75歳以降の人を差して言う言葉で、それに対する「前期高齢者」とは、65歳から74歳までの人を差していうのだと言う。
 そもそも何で、「高齢者」の人々を、「前期・後期」と分けなければならないのか。大学の授業ではあるまいし…。
 それと、「後期」が、84歳まででなく、それ以後ずっとというのもおかしい感じがする。私などが考えると、そこまで言うなら、いっそ「前期・中期・後期…」と、10歳ずつに分けて言ったらどうなのか?とすら思ってしまう。
 だいたい、高齢者と一言で言ったって、その「元気度」には、相当な個人差があるわけで、ただの年齢をもって、「前期・後期」と分ける「おおざっぱさ」には、やはり相当な違和感を覚える。
 私などは中年であるが、例えば35歳からを「前期中年」、45歳からを「後期中年」とか呼ばれたら、それはそれで、相当不愉快ではないかと思う。そんなことを、いちいち国から峻別されなければならない言われもないからだ。
 統計学的に、何かの必要があって、世代を分けて処理をしなければならないということは、役所としてはあるかもしれない。だから、全ての世代を、若年、中年、壮年…などと、分けることそのものは致し方ないのだろう。しかし、65歳から74歳を前期高齢者、75歳以上を後期高齢者と、オープンに呼ぶことは、かなり失礼なのではないかと思うのである。内部でこっそり呼ぶのも失礼かもしれないが、おおっぴらに呼ぶ、役人の無神経さ具合には、怒りを通り越して、あきれてしまう。こういう無神経さ具合でないと、公務員という仕事は、やっていられないのだろうか、などと、揶揄の一つもしたくなる。
 そのように書く私だって、私が書いたものや意見が、100パーセント意図したとおりになんて、伝わると思ってない。それは、それを読みとる側の人々の心持ちや、普段の気構え、神経の太さ具合などを、全て予測することなど不可能だからだ。ものを書く者として、留意はしているつもりだが、「完全」というのは、人間である以上無理である。これは全ての日常生活の場面同様なのだが、それを認めた上であえて言うとすれば、やはり公的機関や、公の組織というものは、たとえそれが一人の人の意志によって書かれるものだとしても、言葉の表現には特に気を配るべきだし、極力完全を期さなければならないように思う。
 この「後期高齢者」という表現にしたって、そう言われた、該当する世代の人は、どう思うか考えて付けた名称なのだろうか?。おそらくはそんなこと、考えもしない役人が、適当に付けてみて、それを特に吟味もいないで、上司がハンコをついた結果なのではあるまいか。それほどの不信感を感じる。
 後期、というと、そのあとはどうなのか?というのも気になる。後期のあとは何か?。なぜ、85歳以降には、別な名称を付けないのか?。95歳以降まで長生きする人が、珍しくない今日、それらの人々も、75歳以上、という「十把一絡げ」でいいのだろうか?…など、疑問は尽きない。
 まあしかし、役所は物書きではないのだけれど、いずれにしても無神経な表現であることには変わりない。関係者は猛省の上、すぐさまこのような、高齢者を愚弄するような言い方は、撤回すべきである。そして、やがては自分も高齢者であることを、忘れないようにすべきだ。
 だいたいこの世は、高齢者におおむね失礼である。もちろん、態度のよくない高齢者が、昔に比べれば、増えたことも事実だが、だからといって、大多数の普通の高齢者を、愚弄していいことにはならない。
 
 人類は、その進化の過程で、「言葉」を獲得した。それは他の生物にほとんどない、極めて高度な、特徴的才能の一つである。しかし、それの使い方は、まだまだ上手ではないような気もする。人類と呼べるものが、この地球上に生まれて、もう何百万年もたっているのに、である。むしろ、言葉の使い方が、下手な方向に、人類は退化しているのではないか?、そんな疑問にも、最近取りつかれる。
 コンピュータや、メールの発達は、まあ便利さ具合からすれば、結構なことである。私もその恩恵には浴しているし、悪いことばかりではないと思う。しかし、面と向かって話したり、電話で話すというのとは、かなり異なり、字面だけでのコミュニケーション手段になることから、やはり誤解や、意図しない取られかたをしやすいメディアだと思う。だんだん人類は、そういうメディアに支配されて、伝えるべき相手に、ちゃんと伝わるかどうかを吟味する時間を、省いて伝えてしまっているのではないか。そういう気がするのである。
 「長寿会員」と、「後期高齢者」。いずれも、「言葉の暴力」とも言うべき、あまり人を愉快にさせない言い方である。こういう言葉が、暴力的な力を持つことに、みな、気付かなくなっているとしたら、それはなんだか、末恐ろしい気もするし、悲しい気持ちにもなるのである。
 ハードが発達して、人はいろいろなメディアを獲得したけれど、ハートのほうがそれについていっていない。結局そんな平凡な結論にしか、ならないのだろうか。
(完)

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