2005年5月6日号

桐の木の災難<1>

  桐の木の災難<1>
 

 どうも桐という木は、最近嫌われものなのだろうか?。
 うちの人々は、サクラの花が終わると、たいてい桜前線を追いかけてなんて行かれないから、違う花を見て楽しむことにしている。それは例えば、4月の中・下旬に咲き出す、「アメリカヤマボウシ」(ハナミズキ)だったり、5月の、鎌倉・段葛のツツジであったり、である。その中でも、「桐の花見」というのは、かなり前からよくしていた。
 桐は、4月の下旬頃になると、高く伸びた枝の先に、漏斗のような薄紫色の花を、房のようにたくさん付ける。新緑の緑と薄紫のコントラストは、青い空にも、雨がちな天気にも似合うものだ。
 また材としても加工がしやすく、成長も早いため、昔はよく女の子が産まれると、庭に植えられたとか言う。それは、その子が成長して、嫁ぐ頃になると、桐の木も成長し、嫁入りの家具や道具に、加工できるからだと聞く。今は時代が変わって、そもそも「嫁入り」などという言葉は、古い時代の言い方になっているし、そういう思想そのものが、現代的ではないと言っていいだろうから、今はわざわざ桐の木を植えるということは、ないはずだ。
 しかし、では桐の木は、都市部から絶滅したのかというと、それはそうでない。どうもタネから実生がはえやすいのか、空き地などに、放っておくといつの間にかはえてきたりしている。どこからかタネが飛んでくるのか?、鳥が運んでくるのか…?。
 ちょっと離れたところに、郵政官舎があって、その敷地に大きな桐の木が1本ある。その郵政官舎が建っている土地は、かつて集配をする郵便局があり、忙しく郵便のトラックや、郵便配達のバイクなどが出入りしていた。わざわざ郵便局の敷地内に、そんな木を植えるわけはないだろうから、その頃からはえていた木ではない。しかし、その木の真ん前にある、女子校の敷地には、かつて桐の木が何本かあったので、もしかすると、そちらからのこぼれダネかもしれない。
 女子校の桐の木は、やがて周辺の敷地整備にともなって、切られてしまったので、今はない。仮に郵政官舎の桐の木が、女子校のこぼれダネだとすると、女子校の桐の木の「形見」のようなものである。
 郵政官舎には、大きなサクラの木もあるし、ヤマザクラも、割と最近植えたのか、1本あるので、春になると花盛りになった。
 そんな景色と、小道の雰囲気が好きで、うちの母親は、区のインタビューを受けたとき、この場所を紹介して、区の担当者も写真を撮りに行ったりしたらしいのだが、なんと、その直後に桐の木は大きく剪定され、その次のシーズンは、全く花が咲かなかった。
 桐の木というのは、やはり冬の間に剪定されることが多い。
 大きく枝を伸ばし、成長が早いから、葉っぱも大きく、枝は天を突くように、高く伸びるので、あまり大きくなって、日光を遮りすぎても困る時には、よく剪定されてしまう。そうすると丸一年は花が咲かず、更に3年くらいは花がとても寂しくなってしまうのだ。
 剪定されていることなど、つゆも知らなかったうちの母親は、紹介したとたんの剪定、木は丸坊主だったので、「まるで嘘を教えたような気分」と言って、半ば憤慨していた。
 まあ剪定そのものは、ある程度仕方ないとは思うのだが、高くなって困るならば、剪定のやりようというものが、あるのではないかと思う。
 最近の植木職人が、全くそういうことを考えないなと思うのは、なぜ丸坊主にしてしまうのか?ということである。伸びてきた枝を、無惨にもまるっきり、1本残らず切り落としてしまう。桐は、それほど弱い木ではないから、それですぐに枯れてしまうということはないが、翌年の春に芽を出すには、その切断面に細胞を増殖させ、傷を埋めるようにしてから、やっと枝を出すので、その1年はひょろひょろな感じになってしまう。
 剪定する側としては、そういう効果をねらっているのかもしれないし、コスト的に丸坊主刈りのほうが安いのかもしれないが、ずいぶん、心ないやり方だと、私は思うのだが。
 植木職人も、職人気質というものがなくなって、枝をうまく残して剪定するとか、樹姿を考慮するとかいうことは、もう期待できない様子である。しかし、そういうことでは、都市の景観なんて、守れはしない。
 剪定を発注するほうも、されるほうも、もう少し勉強が必要なのではないか?。荒っぽい剪定を「好む」人々の住む場所の木は、サクラといえども容赦ない。まったく何のために緑や花を残しているのか?と、問いたくもなろうかというものである。

(次号に続く)→続きを読む

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